石少Q

けし粒のいのちでも私たち

電波に照準を——極私的VTuber備忘録2021

2021年も相変わらず家からあまり出なかったし、その分だけVTuberを観ていた。いや、たまに外出してもイヤホンで配信の音声を聴いていたから、時勢のことはさほど関係なかったのかもしれない。

ここでは、そのような生活のなかで思っていたこと、考えていたことを振り返ってまとめていく。「極私的」とは、「VTuber史」や「界隈」の流れとは離れたところで私のことを書くための予防線だ。その辺りは容赦してほしい。

しかし私は、VTuberとはそのようにも語られるべきだと考えてもいる。二次元の彼らの生活と、三次元の私の生活が、電波を介して混ざり合う汽水域の模様を、ここに書いておきたい。

 

 

にじさんじ

一年前に書いた記事のタイトルは「極私的にじさんじ備忘録」だった。それを今年「極私的VTuber備忘録」に変えた理由は、単純にそのまま、にじさんじ以外のVTuberも多く観るようになったからだ。これはうれしいことでもあり、寂しいことでもあった。

もちろん、にじさんじを観なくなったわけではない。わけではないのだが、2020年と比べては心の距離が遠のいてしまったこともまた事実だ。それぞれのライバーはともかく、箱としての愛着は以前より薄まってしまったように思える。好きなものに対する半ば後ろ向きな気持ちを認めて書くことを心苦しく思いつつ、しかし2021年の私の視聴を記録するという目的に、この点を整理することは避けられない。それに、こういうことこそ書いておくべきのような気もする。私は今、にじさんじのことをどう思っているのか。自分でもよくわかっていないことを解きほぐす。

ライバー各人のスタンスは別として、にじさんじという箱、ANYCOLORという企業が提供しようとしてくれているものと、私がVTuberに求めているものは根本的に異なっている。うすうす勘付いていたそれを確信したのが2021年だった。にじさんじは出来のいいものを与えようとしてくれるが、私は不出来なものこそ観たいのだ。公式番組や、運営主導の企画に触れるたび、そう思う。

私は、寝坊してほしい。遅刻してほしい。朝に寝て夜に起きてほしい。気分で遊ぶゲームを変えてほしい。気分で配信を休んでほしい。気分でコラボを始めてほしい。わからない話をしてほしい。危うい話をしてほしい。つまらない話をしてほしい……。そういう非社会性や非商品性のなかで、変わらない年齢や、変わらない姿のままで、ずっとのびのびとしていてほしい。仲良くしていてほしい。それが閉塞的な三次元を生きる私にとっての奥行き、ゆとり、かつて授業中に眺めていたような窓の外の広さ、そのものになる。この役割は、出来のいい地上波テレビやラジオ、意匠の凝らされた映画やアニメに務まることはないし、インターネット上にあっても、現実と地続きにあらゆることが窺えてしまう顔出し配信や、音声配信ではだめなのだ。

2021年、私がにじさんじに沸いたのは、おおむねハレとケで言うところのハレの方を観たときだった。にじFes、Light up tones、NIJIROCK……さまざまなゲームの大会もそうだ。どれもたくさんの大人が動いて、たくさんのお金がかけられて、それだけに感動も大きかった。これは、にじさんじが発展と向上を続けていてくれた結果だったと思う。

しかし、その感動の土台には、2020年より以前のうちに聞いていたライバーたちの、たくさんの取るに足らない話があったはずだ。はぐれ者たちの、あらゆる私的でだめな話……やさしくてだめな人が輝いているからうれしかったし、本当のことを言えば、輝いてくれなくたって別に構わなかった。3Dも、ARも、あったらうれしいし、無かったらそれでもいい。今のにじさんじを最初に観ていたら、好きになっていたかどうかは正直わからない。スタジオに行った話よりも夜中にコンビニに行った話が聞きたいというのは、私の身勝手なわがままだ。

むろん、たくさんのにじさんじライバーが今も配信上で、そのような取るに足らない生活の話をしてくれていること、のんびりとゲームをプレイしてくれていることは知っている。しかし空気、企業としての方針が生み出す空気が、ライバー個人の配信にも流れ込んで、そこに大なり小なりの気負いが生まれているというのも、また事実のように思える。その言外の気負いが、貧弱な私にとってはしばしば重たいのだ。

波に乗るよりも、波に抗って立ち止まり続けることのほうが難しい。そのことは承知している。つまらないものが見たいと言うのは、おもしろいものが見たいと言うのと同じかそれ以上に傲慢で、仕事としてVTuberをしている人たち、存在そのものが事業のなかにある人たちに本来向けるべき言葉ではない。そのことも理解しているつもりだ。それでも、絶えざる拡張や、前進や、発展の先に、果たして何があるのだろうと思ってしまう。膨らましているものは、しぼむか、破裂するしかないという未来が臆病に、幼稚に、そして自己中心的に怖い。いちばん楽しい熱狂の瞬間には、それが終わるときのイメージが頭を掠める。

「戻ってほしい」と言うほど変わったわけではないし、「また観させてほしい」と言うほど観ていないわけでもない。全然観ている。ただ、2020年と比べて振り返ってみたとき、わずかに遠のいたように感じるその距離を、今は少しだけ不安に、そして寂しく思っている。

 

卯月コウ

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変わりなくあるために ひとつだけ変えた ——キセル『ひとつだけ変えた』

にじさんじに対してそのような複雑な感情を抱くなかで、2021年のあいだ変わらず見続けていたのは卯月コウだった。この配信では、平日の昼間に雑談をして、ポケモンをして、ウマ娘をして、APEXをしている。そのことだけで、上に書き連ねたようなジレンマからは距離のある場所であるということは理解してもらえるのではないかと思う。

卯月コウについて書くことは難しい。コウ自身が言語的な引力を持っている人だから、私が何を言っても語り直しにしかならないように思えるし、そもそも言及すること自体が野暮になるような部分も多い。それでも何か言うべきことを探すのなら……この放送にわざわざ「究極ニート配信」とタイトルをつける意識そのものが、私は好きだ。波のなかで立ち尽くす強さ、意識的に停滞を選ぶこと、その価値と向き合う強さが、ここには表れているように感じる。大袈裟だろうか、しかし……。

永遠のインターネット中学生よ。それは強さでありつつ、同時に弱さでもあり、だからきっと私は今、コウの配信ばかり流している。

 

おりコウ

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涼宮ハルヒの曲聴いて過去を生きる ——魔界ノりりむ(2021年11月30日のツイート)

明日過去になった今日の今が奇跡 ——平野綾『冒険でしょでしょ?』

2021年に何を観ていたかって、おりコウToHeart2を観ていた。

2020年の大晦日から、睡眠休憩を挟みつつ1月3日の朝まで続けられたこの配信は、合計してみれば約30時間に及ぶ。私はこの年跨ぎの30時間を、2021年のあいだ何度も、何度も繰り返し観ていた。なぜそうしていたのか、自分でもよくわからない。ただひとつ、そこにある種の憧憬のような気持ちがあったことは確かだ。

新しいモノに関心の薄い私の両親が、小さなノートパソコンと、恐ろしく遅いポケットWi-Fiルーターをようやく購入したのは2009年のことだった。だから私には、ToHeart2が発売された2004年はおろか、ゼロ年代のインターネットの記憶というものがほとんどない。サブカルチャーから程遠い郊外のベッドタウンで健全に子供時代を過ごしていたから、美少女ゲームの隆盛も昔話でしか知らない。

そのような私の目には、ゼロ年代のインターネットがひとつの静かな理想郷のように映る。実際に当時を知っている人からは一笑に付されるのかもしれない。けれど、10年代以降のカオティックに肥えていく姿しか知らない私には、確かに、そう見えるのだ。知らない過去への郷愁。ToHeart2の無邪気なユーモアと、チープな音楽と、センチメンタルな文体やCGたちが、それを喚起する。

そしてプレイヤーの二人……どこに行っても目を閉じて、耳を塞ぎたくなるような今のインターネットのなかでは、VTuberの配信だけが私にとって静かだったのだ。卯月コウと魔界ノりりむ。この二人もまた、過去への強い眼差しを持っているように思う。

VTuberという、最も10・20年代的とも言えるその存在形式をもって、速すぎる時間の流れのなかに立ち尽くす二人が、ToHeart2ゼロ年代の象徴のような物語のなかにゆっくりと潜り込む。その、今に根ざした上で過去を捉えようとする30時間は、決して戻り得ない、知りもしない時代への憧れを抱きながら、今を生活していく私に寄り添う。

ToHeart2をプレイしていたおりコウの今は、そしてそれを観ていた私の今は、もうすでに過去になった。それが奇跡だったのかどうか、わかるのはもう少し先のことだ。

 

静凛

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海が少し見える小さい窓一つもつ ——尾崎放哉

何も考えずにVTuberの配信を見ているときの気持ちは、何も考えずに海を眺めているときの気持ちと似ている。どこにも焦点を合わせず、何にも集中せず、ただ圧倒的な奥行きの崇高さに身を委ねる。そこに自分の小ささを見たっていい。深夜、液晶の左側に連なる配信中の赤いランプが、そのまま灯台の光のように思えてくる。違うのは、私の意識を繋ぎ止めるものが、声か、波の音かということくらいだ。

2021年の後半は静凛のFF14配信をよく観ていた。いや、正確に言えば、よく「流していた」。私はFF14のことをほとんど何も知らない。だからしずりんが言っていることも、半分くらいはよくわからない。凛Famではないから、コミュニティとしてのおもしろさも体験していない。自分が何か作業を始めたら、一時的にミュートにすることだってあった。配信を視聴する態度としては不誠実でしかないのだが、それでも確かに、私はしずりんのFF14配信が好きだった。他の配信ではだめな夜があったのだ。

その要因のひとつは、やはりしずりんのパーソナリティにあったと思う。なによりもまず声質が好きで、急な大きい音が苦手な私にとっては、落ち着いた喋り方もやさしい。配信に対する姿勢も、奔放で気負いがない……ようにひとまずは見える。そしてなにより、ゲームを楽しんでいる人のことが好きな私は、しずりんが何時間もプレイを続けてくれれば、それだけでうれしい。FF14が初見につらいコンテンツであることは、しずりんも言わずもがな理解しているように思う。私がさっき不誠実な視聴態度を告白したのも、そういう見方すら許されるような気がしたからだ。しかし私は、わからないことを楽しげに話してくれる、そのこと自体が心からうれしかった。

そしてもうひとつの要因は、FF14、ひいてはMMORPGというゲームジャンルが持っている性質にあるように思う。

ゲームプレイはときに、あきれるほど無意味な行為のように感じられる。「こんなことして何になる」とは、ひとつのゲームに長時間を費やした末にしばしば思うことで、その次元では、享受してきたさまざまな喜びや感動は、もはや途中経過としか思えなくなる。そのことはMMOにおいても変わらない。働いて、お金を稼いで、他人と交流して、物語を進める。それをして、果たして何になるのだろうと我に返ることがある。

ひとつ、MMOが他のゲームジャンルと違うのは、その世界があまりに人生の透写物として精巧であるがゆえに、ゲームに対する虚無感が、そのままプレイヤーの生に対しても降りかかってくることがあるという点だ。MMOが無意味であるならば、それに限りなくよく似た私の人生も、また無意味ということになるのではないか。やがてサービスは終了し、意識は途切れるというのに……こんなことして何になる。MMOはその強い没入感の裏側に、激しい虚無の感覚をも持ち合わせている。

しかしMMOが、あるいは生が、仮に無意味であったとして、無意味なものが必ずしも無価値であるとは限らないだろう。私はゲームや、VTuberの配信から、価値のある無意味を認めてみたい。

「なぜか町には大事なものがない」「意味を求めて無意味なものがない」という歌が聞こえてくる。意味とは、本質的に無意味なすべてを取り繕うための口実だ。したがって、深奥の無意味が実感を伴って脳裏に立ち現れてきたとき、あらゆる表層の意味は機能しなくなる。そこで精神を慰められるのは、同じように無意味なものだけだ。

存在することが本人の意志によって選ばれているVTuberの、MMO配信の、多層の生の乱反射には、そうした無意味さを委ねられるだけの崇高さがある。そして……意味のあるものばかりが存在する場所で、無意味なものは価値を持つ。しずりんがただ、衒いなくFF14をプレイする。「撮れ高」など知らないふうに、取り立ててふざけも、叫びもせずに、さらにもうひとつの生を淡々とロールプレイしていく。その姿をぼんやりと眺めているうちに価値を確信できたのなら、その時点から私の無意味さは慰められる。

私は、海を見るような気持ちでしずりんのFF14配信を眺めていた。液晶から望む、架空の生の途方もない奥行きは、私に、私の無意味を認めさせてくれた。そして、そこでは声が——楽しそうにわからない話をしている静かな声だけが、私の意識を繋ぎ止めていた。

 

コラム:「観ないVTuber」の可能性

にじさんじについてはもう少し書くことがある。私には2020年のあいだ、ぼんやり推しとして定めていた3人のライバーがいた。月ノ美兎、ジョー・力一、鈴原るるである。

2021年、引退してしまった鈴原はまた別として、委員長と力一さんに関しては、変わらず大好きでありながらも、YouTubeの配信はそこまで熱心に追わないという不思議な状況が生じていた。軍団の自覚も凛Famの自覚もないが、おそらく単純に時間だけで言えば、コウやしずりんの配信を流していた時間のほうが長かったと思う。

そうなった理由として思い当たることにはさまざまあって、例えば二人のアーティスト活動の眩しさが、すごくよろこばしくて勇気づけられる反面で、自分の焦燥感を刺激した(クラスメイトやバイトの先輩の、外での活動が軌道に乗ってきたときのような……)という、ごく個人的なものも無いとは言えなかったと思う。特に『月の兎はヴァーチュアルの夢をみる』はあまりに圧倒的で、大好きな人の初のフルアルバムでありながら、際限なくリピートするような聴き方はしなかった(できなかった)。あれを聴いているとき、自分もなにかをしなくてはいけないような気持ちに駆られるのだ。

しかし、もっと大きな理由としては、単純に今の二人の配信が「おもしろすぎる」ことが挙げられるだろうと思う。窓の外にするには情報量が多いのだ。そうすると、自分のなかではアニメやバラエティ番組に近いような位置付けになって、その意匠をないがしろにしたくない気持ちから、配信を開く指先は重たくなる。もちろん観たら観たで、おおいに笑って楽しみはするのだが……。日常的にはツイートやファンアートなど、配信外のもので存在に触れて、支えられるようなことが今は多くなっている。

これもひとつのジレンマで、寂しくないということはない。自分にもっと体力があれば……とも思う。だが、二人が配信者である以前にバーチャルの人間であるということを考えてみたとき、そのような触れ方でも悪くないのかもしれないとも思う。数字に貢献する、という観点はひとまず度外視するとして。

VTuber」という言葉が語義的に彼らの活動範囲を賄えなくなってから久しいが、じっさい、彼らがいるのはYouTubeの上だけではない。何気ないツイートや、飾っているグッズや、流れてくるイラストや、あるいは……東京に出たときに月ノ美兎のことを考えて、夜中の散歩でジョー・力一のことを考えて、そして眠る前にときどき、鈴原るるのことを思い出す。もしかしたら、それだけでもいいのかもしれない。

また、これは2022年になってからの話になるが、ここへ来てふたたび、少しずつ彼らの配信を開くことが増えてきた。私のほうに余裕が出てきたというのもあると思うが、むこうが意識的にゆとりを作ってくれているような気もするのだ。それは例えば委員長の『JUDGE EYES』〜『LOST JUDGMENT』という、流行りにも、ネタにもならないラインの奔放なゲームチョイスとプレイングであり(本当に楽しそうでうれしい)、力一さんの「洗車雑談」という試みだった。特に後者では、明確に今後の展望として、そのようなゆとりが語られていたのが印象に残っている。

「手の届きやすい範囲のグリーンカレーを方々から集めてきて食べるっていう大会。食べ終わったのち、車を洗いながら雑談を始めますっていうね。もう今年はそんくらいゆるくていいのかね!」

https://www.youtube.com/watch?v=5k27cwyfPj8 (1:35:00~)

観なくなっても、他の断片からVTuberを好きだと言い続けることが許されたいと思う。そうやって持続させた好意は日々の推進力となって、ふたたび人を配信に向かわせたり、あるいは向かわせなかったりする。私は今、たまに委員長や力一さんの配信を観ていて、鈴原の配信を観ることはもうできない。それでも、推しなんて密かに思い続けることで、救われる瞬間は確かに、これからも訪れるはずだ。

 *

……少し最初の項から感傷的になりすぎたような気がする。細かい感想を書くことは断念するが、にじさんじでは他に、えるさんの朝活APEX、緑仙のスマブラファイアーエムブレム、安土桃のストⅤ、愛園さん、椎名さん、葉加瀬の配信などをよく観ていた。

ここからは気を取り直して、事務所や関係性の単位ではなく、個別に追うことの多かったVTuberたちのことを、しばし振り返っていきたい。なるべく簡潔にするつもりではいる。

 

アズマリム

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ひきこもりがちな私ではあるが、別に外のことが嫌いなわけではないのだ。あらゆる怖さや面倒ごとの可能性——そのほとんどが対人的な——を前にたじろいでいるだけで、その心配がない家のまわりの散歩は好きだし、あるいはバイクに乗って、どこか遠くまで一人で行けたなら……と思うこともある。

VTuberブームの黎明期と言える2018年には界隈を遠巻きに眺めるにとどまっていた私にとって、アズマリムにはなにやらいろいろ大変そうな……という印象があるのみだった。その印象を大きく変えたのが、アズリムが2021年の春頃から投稿し始めていたスーパーカブ関連の動画だ。アニメ『スーパーカブ』にまんまとハマっていた私は、憧れからカブの車載動画などを観ているうちに辿り着いていた。

刺さるポイントはいくつもある。例えば純粋な映像としての美しさ。上に挙げた動画で言えば、海辺でカップラーメンにお湯を注ぎ入れるとき、水滴にアズリムの顔が反射するシーンには思わず息を呑んでしまう。また、その美しさを支えている、アズリムがバーチャル生物であることを忘れさせない編集の巧さも非凡だ。アズリム自身の身体はもちろん、声や挿絵など、さまざまな要素が程よい配分で動画に散りばめられていて、それが三次元の空間にアズリムを現している。

そしてなにより惹きつけられるのは、免許取得のための勉強をして、憧れのバイクを納車して、初めての公道に出て、あらゆる場所に向かって……という、ほどんとすべての流れが動画や配信に載せられることで確かに見えてくる、新しいものごとに一人で、ひとつずつ挑んでいく姿勢だろう。動画を観ていると、アズリムもいろいろなことに怯えているのがわかる。それでも、その先のよろこびまで走っていく姿は、間違いなく私たちにとっての燃料となる。

最近では、ホームページ作成や3DCGのモデリングなどに挑戦しているところもTwitter上で見せている。なんだか二次元の人のそうした姿には、三次元の人よりも特別に勇気づけられるような気がするのは、私がただ単にVTuberのオタクだからで済まされる話なのだろうか。

 

名取さな

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私が最初の項で書き連ねていたようなVTuberの商業的な寂しさの問題は、ひょっとしたら個人勢へと視聴のフィールドを移すことで解決するように思われるかもしれない。少なくとも私はそう思ったのだが、じっさいのところ、話はそう単純ではなかった。

まず、発展のために邁進する姿勢は個人VTuberにおいても変わらないことが多い。むしろ企業レベルではなく個人レベルでその動きが見られるという点で、より色濃く感じられるとも言える。個人VTuberを発掘するための数々のハッシュタグはその裏付けとなって、そのように活発に多くの人がバーチャル世界で動くことは心から素晴らしいと思うのだが、個人的な視聴の好みからは逸れてしまう。

また、キャラクターを取り巻く自由度の違いもある。個人VTuberにはモデルを外注する場合と内製する場合とがあるが、キャラクター像から容姿に至るまでを多くは一人で決定できるということに変わりはないだろう。その場合、VTuberは限りなくアバターに近い存在となり得る。むろん、それでも楽しいことはいくらだってあるが、しかしVTuberが持っているある種のドラマ性のようなひとつの、そして決定的な魅力には、企業勢に多く伴う不自由さ、つまり身体やプロフィールと、内面とのギャップが、やはり寄与しているようにも思う。

アニメキャラと比べては、リアルタイムに動き続ける意思という圧倒的な自由度を持ち、しかしアバター文化と比べては、与えられた身体や設定という不自由な物語性を持つ。そうしたあわいの領域に存在する化学反応めいた効果に、私はずっと魅了されているのではないか。

なぜこんなことを書いているかといえば、個人勢にして、そうした物語性を確かに感じさせつつ、しかしやっぱり余裕も垣間見える名取の特異さを言い表したいがためだ。なにを言っても野暮になるように思えてしまうのは悪友のコウと同じで、外縁の要素について書くような仕方になった。

しかし……単に好きだったから選んだ雑談配信ではあるが、サムネイルのとぼけ顔がなんとも、話題と呼応しているような気もする。おもしろさやかわいさを呑気に観ているなかに、ときおり感じ取ってしまうその圧倒的なクリエイティビティには、ほとんど畏れに近い感情すら抱ける。

 

ヤマト イオリ

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ヤマトイオリを観るようになったきっかけは、2021年のなかで最も運命的だったと思う。

初夏の頃に売られていたVTuberチップスをコンビニで偶然見かけて、気まぐれに買ってみた私が引き当てたのは、ヤマトイオリのノーマルカードだった。もちろん存在は知っていたが、アズリム同様、黎明期にはVTuberに熱中していなかった私にとって、.LIVE、そしてアイドル部は少し触れがたい存在だった。しかし、ランダムに配されたカードから一人を引いた縁と、裏面に書かれていた「電柱察知能力が年々上昇し、前を見て歩くことが可能になってきた」という一文に惹かれてチャンネル登録をして、それから少しずつ配信を観るようになった。

ある夜、たまたま生放送に時間が合って観ていたとき、配信を切り上げようとする流れで「最近見始めたよって方もたくさんいらっしゃると思うので……」と言っているのを聞いた。私もその一人だ、と思いながら、蓋絵になったあとに目に入ればいいという気持ちで、めったに打たないコメントを打った。VTuberチップスで引いてから見始めて、応援しています、というような内容だった。

次の放送の日時の確認すら終えていた配信は、もう本当に停止ボタンを押すだけだったと思う。しかしイオリンは、私のそのコメントを拾い上げて、ひとしきり驚いてみたあとに、「イオリはファンのみんなさんのことを『右目さん』と呼んでいて、なぜかというと……」というレベルからの自己紹介を新しく始めてくれたのだ。先にも述べた通り、めったにコメントを打たない私はこの事態にしかと動揺したのだが、同時にヤマトイオリという人の魅力を、身をもって感じ取ったのだった。

たくさんの人が長く、大事に観てきたことを知っているがゆえに、今の私が斜めから言えるようなことはほとんど無いように思える。しかし、そうした暖かさ、眩しさ、そして繊細さに惹きつけられていることは確かだ。配信を見始めたのが夏だったことも影響してか、相対性理論の『夏至』を聴いているとき、私はヤマトイオリのことを思い出す。

18才 桜散る 19才 向こう見ず 20才 大人になれず 暑く暑く茹だる夏が来る ——相対性理論夏至

配信を終えるとき、アーカイブでの視聴者に向けて、放送中のその瞬間の年時から秒数に至るまでを唱えたあとに、リスナーと共に一丁締めをする。そうした時間への意識のなかで、過去にひとつひとつ足跡を残しながら前を見て歩く、今は17.004才のイオリンのことを、私はこれからも追いかけてみたいと思う。

 

大浦るかこ

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停滞や無意味さを称揚している私にも、新しく知らない世界に触れてみたい気分になることはある。その心理は例えば、受験生のときに気休めでも英語のリスニング音声を聞きながら休憩してみるような感じの……。

ある人の配信を観ているときの特有の気持ちは、他の誰かの配信によって代えられることはない。それは誰だってそうなのだが、774inc.所属、あにまーれのメンバーである大浦るかこの配信を観ているときの感覚は、VTuberのなかでも特に異質で、代えが効かない。

サブカル、アングラ、インターネット、漫画、文学、そしてミニマルな生活の話を、低めの落ち着いた声で淡々と喋っていく。そこにまったく嫌味な感じを受けないのは、本人にとって、それらの話をすることが極めて自然だからではないかと思う。また、一方的なプレゼンテーションではなくて、リスナーとのコミュニケーションによってそうした話題を広げていくようなスタンスも、ある種の爽やかさの一因となる。後述の獅子王クリスと共に行なっている読書会の企画は、そうした姿勢の象徴とも言えるだろう。

上に貼ったのは隔週水曜日の朝に行われている定例配信で、私はこの試みが好きだ。フクロウにモチーフを採っている大浦るかこにとって朝7時からの配信は優しくない様子だが、お湯を沸かして、コーヒー豆を挽いて、その豆の産地をGoogle Earthで眺めて、なんとなく想いを馳せたりしながら眠たげな声を少しずつ起こしていく時間は、私の珍しく早起きした朝の調子を整えて、あるいは眠れずに迎えてしまった朝の、淀んだ空気を澄ましてくれる。

 

獅子王クリス

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定例の雑談枠を持っている人はそれだけで魅力的に思えてしまうが、そのなかでも774inc.所属、シュガーリリックのメンバーである獅子王クリスが土曜日の24時から多く行なっている「焚火雑談」には、とりわけ独特な空気がある。

話すことといえば、その日の酒の紹介から始まって、近況報告、ネットニュースの時事ネタ、昔のインターネットへの懐古、アニメや映画の感想、仕事の愚痴、創作、社会、オカルト、お金、性など……話題は取り留めなく移り変わっていく。実家に住んでいることは配信中にもたびたび触れられているが、驚いたのは、母親が帰宅したときにミュートせず「おかえりー」と声を張り上げるようなラフさだった。破天荒さを売りにしているような箱ならまだしも……しかしその獅子王クリスが、同じ774inc.の軽やかな後輩である大浦るかこと仲がいいというのは、なんとも合点がいくことである。

まったく違うのが前提なので引き合いに出しても差し支えないと踏んで言ってみるなら、私には卯月コウか獅子王クリスの雑談配信しか観られないような気分というものがある。この二人に共通しているのは、世の中のあらゆる体裁や規範を前にして一度立ち止まり、自分の目をもって検討してみることをやめないような視線の習慣だと思う。そのような疑り深い眼差しを持つ人の話は、どんなにくだらないものでも、私が日常のなかに抱いている違和感と呼応してくる。

ためらいなく深層に踏み込んでいくような喋りは危ういが、危ういものはどうしたっておもしろい。露悪にまではならない程度に愚かで、小悪魔なのにひどく人間じみている。そして、そうしたルーズさを経由してしか感じ取れない温度は確かにある。どこまで許されるのかはわからないが、できれば長く、私は獅子王クリスの配信を観ていたいと思う。

 

ぶいすぽっ!

VTuberの雑談配信を偏愛していた私にとって、FPSの配信を多く観るようになったという2021年の個人的な変化は予想だにしていないものだった。

FPS系のゲームに特化したVTuberの14人を擁する事務所——ぶいすぽを追うようになったことが、その変化の明確な理由となるのだが、しかしゲームのプレイングよりも、VTuberたちの見え方や、配信上での言葉のほうに意識が向きがちなのは、以前から変わらない部分でもある。

ぶいすぽという箱が維持しているモードには、意外なほどに独特なものがあるように思う。悪魔と人間のハーフである空澄セナを除いた全メンバーは単なる人間だったはずで、なおかつ年齢や出自に関する特異なプロフィールを持つ者も少なかった。特徴的な語尾も無いし、翼も、ツノも、天使の輪っかもない。つまり、VTuberの先天的な物語性が、ぶいすぽにおいてはかなりの割合で排されていると言える。

そのことは兎咲ミミが、兎耳を髪飾りだと配信上でしばしば言明している点に象徴的だ。容易く兎耳を生やせるはずのVTuberが、わざわざそれを装飾品であると打ち明けたとき、極めて自然なかたちで現実に立脚したキャラクターの姿が立ち現れてくる。一ノ瀬うるはが狐耳の衣装をコスプレだと言い放ったのも類例だ。どうとでも言えることがどうとも言われなかったとき、そこには確かな意志が見えてくる。

そして、そのように現実のレベルに肉薄したモードは、ぶいすぽメンバーの配信スタイルに漂う空気と綺麗に馴染む。箱としてのぶいすぽの最も大きな魅力は、まるで寮生活のアニメのような、仲のいい14人のラフな生活の重なり合いだろう。そのとき、シンプルなプロフィールに対する「気兼ねなさ」は、当人たちだけでなく、視聴者の無意識の構えをも解かせる。

ぶいすぽという箱は、所与のものよりも、その場その場で現れては消えていく泡のような物語のほうに、VTuberとしての魅力を賭しているのかもしれない。Discordの「ぶいすぽ鯖」に入れ替わり立ち替わりメンバーがやってくる、予定のない時間。VAROLANTの練習をしていた一人のもとに、自然とメンバーが集まってきて、パーティを組み、それが終わった深夜に眠かった一人は離脱して、残った四人はお酒を空けながら麻雀を打つような、始まりも終わりもない物語。

リアリティラインを手繰り寄せる指先が、特有の活動を形作っていく。その手つきからは、ガラス板をノックするような音さえも聞こえてくるかもしれない。

 

一ノ瀬うるは

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一ノ瀬うるはの声を最初に聞いたときの小さな衝撃をよく覚えている。声について語ることには容姿について語ることと同じくらい怯えたいところだが、そうした不安を引き受けても私は、その声を特別に好きだと思ったことを書いておきたい。そして、それがVTuberの声だから尚更うれしかったということも。

配信者でありながら、自分のことをニートと言って憚らない人の精神性には強く惹きつけられる。私はかつて、にじさんじの魅力を「終わらない文化祭準備」と言ってみたことがあるが、それに比してみれば、ぶいすぽの、そして一ノ瀬うるはの魅力は「終わらないモラトリアム」の幻を見せてくれるところにあると思う。めちゃくちゃな生活習慣のなかで、外のことを少しずつ忘れていく。私は一ノ瀬うるはが、ニュースや流行のことをリスナーに尋ねるときのトーンが好きだ。

しかし、モラトリアムとはけっして呑気で怠惰なだけではなかっただろう。そこには確かに内省があって、焦燥や憂鬱がある。そして、その痛みすらも配信上で打ち明ける声に、心は揺さぶられる。隠さないことは、隠すことと同じほどに難しいはずだ。

じっさいのところ、ぶいすぽの人たちには大会というイベントごとが常に待っていて、それが「文化祭」にあたる節目とも言えるかもしれない。しかし大きく違うのは、そのほとんどが家のなかで完結するという点だ。メンバーとオフで会うのが一大イベントになるくらいの距離感。最後に外に出た日を遡って数えるひきこもりたちは、それこそが生業であるがゆえに、こちらも心置きなく、モラトリアムの幻に身を委ねられる。私にとっての大会の白熱は、そうした融和と共にあるものだった。

 

BIG☆STAR

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一ノ瀬うるはを追うようになって、喋りのなかに多分に含まれるAPEXのネタを理解したいがために自分でもプレイを始めてみたりして、そうしていくうちに必然のように好きになったのは、BIG☆STARというナンセンスな名前のグループだった。ぶいすぽの一ノ瀬うるは、774inc.所属でブイアパの小森めと、個人勢から新興のmeriseへと所属した白雪レイドの三人から構成される。

本当に仲のいい人たちの、沈黙を恐れないリラックスしたやりとりを見ているときのよろこびは強固だ。それぞれ事務所の異なる三人は、それでも頻繁に集まって、喋ったり、喋らなかったりする。間延びしたリズムは心地よく、このメンバーが揃ったときに関して言えば、配信からは放課後や、長期休みのような雰囲気が感じられてくる。

一ノ瀬うるはがある日のソロ配信で、気まぐれにBIGの二人へ通話をかけて、タイミングよく応答できた両者に喜びを含めて放った言葉は感動的だった。

「配信切ってくるからさ、二人とも別に暇でしょ?今」

「うん」「暇だよ」

「なんか……配信じゃ話せない話しよ」

https://www.mildom.com/playback/10957164/10957164-c1trug52lrnc3rjldo20?ts=1644775946245&from=pcShare (4:42:58~)

三人がいとも簡単に口にしてみせる「じじばばになっても喋ってると思う」といった類の言葉は、それが発された瞬間からかけがえのない光だ。最後に、まるがよつ先生の大好きなファンアートを引用したい。違う制服の青春は、この三人のそばで確かに幻視される。

まるがよつ on Twitter: "春はおわっちまったが~~~~

 

英リサ

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ただ素直に人間性に惹かれている場合、それ以上なにも言えなくなってしまうのだが……英(はなぶさ)リサという人の優しさがさまざまな人に降り注いでいくのを、2021年の序盤から見ていられたのは幸運だったと思う。確かに、降り注ぐと言っても大袈裟ではないほどの優しさだった。

明るくて快活なイメージには天真爛漫とも言いたくなるが、しかし雑談配信などを聞いていると、そう呼ぶにはあまりに多くの屈託と真摯に向き合っているような印象も受ける。常に視聴者を楽しませる人であるということは前提としてみて、こういう場所では、そうした生真面目さの魅力について触れることも許してほしい。

クリスマスイヴに投稿されたぶいすぽの『Blessing』の歌ってみた動画において、はなリサが「笑えなくても」と歌ったあとに小さく笑い声をこぼすのは本家へのリスペクトだったが、しかしそうした心の動き方は、英リサという人にもよく似合っているようにも思えた。その歌詞の割り振りを考えたのが同期の親友である橘ひなのであるということには、いたく納得させられる。

ぶいすぽメンバーから外部のVTuberやストリーマーまで、幅広くコラボするなかに等しく垣間見える気遣いと、ソロ配信でときおり打ち明けられる迷いと、それらをすべてひっくるめるような眩しいユーモアと笑い声には、これからも何度だって心救われるだろう。

 

雪月花

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にじさんじの卯月コウと、BIG☆STARの白雪レイドと、ぶいすぽの英リサが「雪月花」としてチームを組んで、界隈最大とも言えるFPSの大会である「VTuber最協決定戦」に出場したことは、私にとってまさに夢のような出来事だった。もし頭からここまでを順番に読んでくれるような気の長い人がいたなら、その感動も多少は追体験していただけるのかと思う。

迷わず顔合わせからカスタム、つまり練習試合、そして本番までを欠かさず観ていたのだったが、結果としてこの体験は、スポーツの観戦に手に汗握ることの楽しさを、ほとんど人生で始めて味わうような貴重なものとなった。そしてそう、スポーツと呼ぶことをまったく躊躇わなくなるくらいにFPSの、そしてeスポーツの捉え方も変わった。

応援することの意味や効果なんて理屈を考えるよりも先に喉が(私の場合は指先が)動く。プレイや戦績を自分のことのように一喜一憂していく。結果は惜しくも準優勝に終わった雪月花だったが、その最終戦で優勝の望みが絶たれたときの喪失感には凄まじいものがあって、そこまで激しく同一化をしていたことに、我ながら驚いたのだった。

実感したのは、スポーツもひとつの物語だということだ。確かに、私の乏しいリアルスポーツの知識を無理やり引いてきても、人々を感動させるような引退の言葉や、メダルを受賞してのコメントには、台詞めいた趣が感じられる。こと雪月花においても、顔合わせの時点ではほとんど他人同士だった三人が、本番で呼吸を合わせるまでに仲を深めていく物語に私は熱中していたのだった。だとしたら、私が知らないだけで、私が好きになれるものは案外たくさんあるのかもしれない。

それから、大会の本番が終わったあと、二位の悔しさと、疲れから来る眠気と、近づいている雪月花の別れの寂しさを、配信者も視聴者も抱えながら参加していた後夜祭の空気も忘れがたい。その脱力と寂寥の感じには、「これはこれで青春映画だったよ 俺たちの」という、syrup16gの歌詞を思い出していた。

 

紫宮るな

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2021年の9月にデビューした紫宮るなのことを好きだと自覚したのは冬に差し掛かってからだったが、それよりも以前から、なんとなく配信を開いているようなことは多かった。それを不思議な引力として、そのビジュアルや、類い稀な声質や、特有の言葉選びを賛するのに応用するのも可能だったかもしれないが、しかしじっさい、初めのうちは端的にその圧倒的な配信時間が、私に存在を忘れさせなかったのだと思う。そのようなバイタリティは、年末の30日と31日の、両日とも7時間近くをVALORANTの練習に費やしていたことからもよくわかる。

例えば、毎回の配信を1時間前後で切り上げるような丹念さは、その配信に番組としての価値をもたらす。そうした試みは間違いなく偉いものだが、しかし同時に、私はそこに寂しさも感じてしまうのだ。「なぜあなたが時計をチラッと見るたび泣きそうな気分になるの?」という赤いスイートピーみたいな気持ち……そのような弱さには、「今日何時までやります?」「おまかせで」といった多人数コラボの際のやりとりに、「おまかせって言ったら朝までになっちゃいますよ」と言ってのける紫宮るなの途方もなさがやさしい。そしてその途方もなさは、配信に、窓の外の風景としての静的な価値をもたらすことになる。たとえ銃声が鳴り響いていたとしても。

小さな部屋に奥行きを与える、変わらない窓の外の風景としての配信……それは紛れもなく、私がVTuberに求めていたものだった。時としてマイクをオンにしたまま躊躇なくカップラーメンを啜ってみせるような紫宮の、生活の延長線上に活動があるようなスタンスには、自然とこちらの力も抜けてくる。

窓のない部屋に居続けては、他人のことを思う余裕など生まれないだろう。配信者の声や、話している内容や、行為のことを意識できるようになるのは、もたらされた奥行きに安心を得てからだ。つまり何が言いたいかといえば、紫宮るなの、才能の賜物と言ってもいいような自然体での長時間配信を心地よく流しながら、ときおりその声に耳を傾けて癒されたり、こぼれ出してくる突拍子もない言葉に笑ったり、かっこよすぎるプレイングに感銘したりする夜や、朝や、昼の時間が、私は好きだということだ。

 

おわりに

2021年の視聴を振り返っている最中に気がついたことを、恥ずかしげもなく覚えたての言葉を使って喩えてみたなら、この一年、私は「追いエイム」ではなく「置きエイム」の仕方でVTuberを観ていたと言えそうだ。

追いエイム、つまり対象の動きに合わせてスコープをずらしていくような見方はしていなかった。環境の変化が(あるいはスコープの歪みが?)推しを枠の外へ追いやっても追従することはなく、ひとつの関心の地点に当たりをつけて、そこに構え続ける置きエイムの方法で、対象の往来をじっと眺めていたように思う。

VTuberの視聴すらも運動不足であることが明らかになってしまったわけだが、それならそれとして、これからは、私はその置きエイムの、スコープの倍率をできるだけ高めていくような見方をしてみたいと思う。それは保守的なことではない。好きなものに関して、遠方の小さな対象までをも捉えられたなら、それは純粋な刺激となるだろう。

しかしそうして狙いを定めて、引き金を引いた末に出てくるのがこのような文章なのだから、なんとも間抜けではあるのだが……備忘録と銘打ったりして、自分のためという素振りではいるものの、じっさいは好きな人たちの活動に、少しでも花を添えられたらという気持ちもある。極私的な視点の表明が誰かの、新しい魅力の発見に多少なりとも貢献できたなら、私はうれしい。あるいは未来の人にとっての、忘却の備えになれば。

電波のうねりが撒き散らす光の粒子のほうへ、呼吸を整えて、照準を合わせる。

ひとり光が在ってこそ、この世の国土のこよない壮麗さも明かされるのだ。 ——ノヴァーリス「夜の讃歌」

VTuberと私の空洞

身長とか体型とか、VTuberの身体をイジるようなコメントと、それにキレるVTuber、という構図は今でもよく見る。全然おもしろくないしそういうの、もうやめなよと思うんだけど、ここにはVTuber本人も本質的に責任を負っていない(いつでも、いくらでも作り変えられるはずだった)身体と、それを知っていて無責任な言葉を投げるリスナーの、ひとつの空洞があるように思えた。VTuberが多くは自分の身体を大切に思っているということ、その背後にはイラストレーターやモデラーの仕事があるということは前提としつつも。

VTuberはどこまで自分の身体を、自分の身体だと思っているんだろう。急に垢抜けたレイド君が、新モデルと旧モデルの間につけていた折り合いのことがわからない。安土桃が、鳴くんがあのとき何を思っていたのかが、私にはわからない。

いつだったか、笹木のモデルに不具合のある時期があった。私はその瞬間を見たことは無かったが、顔がいびつになるバグだったらしくて、「ふと見たとき自分の顔が変なになってると萎えんねん」というようなことを言っていた。そう言う笹木に、顔が変なになってるよ、と言うことなんてできないはずだ。現実の人間にそう伝えられないように。

話は身体に関することだけではないかもしれない。もはや「他者についてなにかを言うこと」を怖がる私が、VTuberについてなら延々と喋れてしまうのはどうしてだろう。配信はひとつひとつが作品だから? と考えるのに無理があることはすぐにわかる。

リアルのYouTuberをあんまり見ないから比較するのも難しいけど、例えば匿名ラジオについて、「ARuFaが」「恐山が」とツイートするのはやっぱり少し緊張する。「委員長が」「名取が」「のせが」は、踏み込み気味のことを言うとき以外は怖いことなんてない。

生身の人間はよく事故る。回線の不調で動画がちょうど半目の人を映しながら止まってしまったときの、居たたまれない気持ちよ。卯月コウはよくちょっとおもしろい表情で顔が固まる。そのことに対しては特に申し訳なくもならないし、ちょっとおもしろい表情、とか、やっぱり言えてしまう。

VTuberのこと生きてると思っているし、ほとんどリアルの人間と同じように感じている。と同時に、そのフィクション性に依りながら動いている部分もある。現実の人間に対して言えないことがVTuberに対してなら言える。これはうれしくて怖いことだと思う。

月からのエイリアン

ライブ「月ノ美兎は箱の中」は、月からZepp DiverCityへと、月ノ美兎が入った段ボール箱が届けられるという映像から始まった。

聞き馴染みのある待機BGM「雲は流れて」の音声が乱れて、一曲目「月の兎はヴァーチュアルの夢をみる」へと繋がる。「Zepp DiverCity行き from moon」と書かれた段ボール箱が、月から放物線を描きながら飛来してくる。曲の展開が激しくなってくるあたりで、箱の中身が月ノ美兎であることが明かされて、その背景では過去のライブ映像や、くだらない動画たちが星のようにきらめく……。

過去にツイートしたことだが、この「月の兎はヴァーチュアルの夢をみる」の、声の裁断と加工という手法は、VTuberと不可分の二次創作たち、つまり「切り抜き」や「音MAD」や「人力」の存在を想起させる。月ノ美兎は生放送での喋りの上手さを圧倒的な強みとしつつ、同時にそのような他者からの二次的な編集によっても、リスナーたちの中に姿を作っていった人のはずだった。だから、声を激しく切り刻まれながら地球=私たちのもとへと接近してくる、その鋭い演出には思わず息を呑んだ。しかしその箱は、大気圏に突入しても燃え尽きることはない。

夕方のお台場の上空で虹色のパラシュートが開く。宇宙から地球にやって来るってエイリアンみたいだ。そういえば過去にOs-宇宙人も歌っていた。「地球で宇宙人なんてあだ名でも」……宇宙人、とまでは言わなくても、学校や、社会の中での"異質な"存在としての委員長の姿は、これまで語られてきた昔話の中に何度も見てきた。それはVTuber史の中で考えてみても同様だ。にじさんじのやべー奴……私たちは、いつだってその異質さに惹きつけられてきた。

そしてZepp DiverCityに到着した段ボール箱は、台車に乗せられ、実際のステージ上に運び込まれる……これって委員長が幾度となく得意げに話してきた「シュレディンガーの猫」じゃん! シュレディンガー月ノ美兎、とでも言うべきか、過去の発言が伏線のように思えてきて思わず笑いそうになる。月ノ美兎が入っているはずの箱と、三次元的な箱の中に入れるわけがない月ノ美兎によるパラドックスがここに発生して、しかし確かにそのとき私には、その箱の中には月ノ美兎が入っているように思えたのだった。

公演の最後には、ライブタイトルの元ネタとなったエッセイから一節が引用された。「起立しナイト」の終了後、段ボール箱の中に入って、阿佐ヶ谷ロフトから外へと運び出される、「その瞬間わたくしは、どんなイベントの時よりも、どんな配信の時よりも、『今は紛れもなく自分が主人公』だと感じたのだ」。

冒頭の演出は委員長が主人公だった瞬間の再演で、それはこのライブそのものを「箱の中」にするために必要だった。月からのエイリアンが地球で主人公になるために。

聞こえなかったはずの

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昨日の夜、寝ながら流すための配信を探していたら目に入って、葉加瀬ってASMRの印象あんまり無いよなあとか思いながら試しに再生してみたら、これがすごく良かった。

声のことが好きで、綺麗な音のことが好きなはずなのに普段あんまりVTuberのASMR配信を聴いていないのは、その独特のモードにそわそわしてしまうからだった。わりと聞き慣れた声で「よしよし♡」って言われたときの心の置き所がいまいちわからない……ましてや眠ろうとしているときに。だからこれまで観てきたのはバイノーラルリゼるるとか、パトラ先生のASMR講座とか、ちょっと企画っぽいものが多かった。

上の葉加瀬のアーカイブを流し始めて少し経ったくらいのとき、「さらさらしてて良い」と直感的にツイートをした。これはその囁き声のクールさに対する形容でありつつ、配信全体の触感についての言葉でもあったと思う。なんというか「サービス感」みたいなものがあんまり無くて、VのASMRにしては糖度が低い気がした。普段の雑談と変わらない印象で、ただ電気を消したからひそひそ声で喋っているだけのような感じ。

喋っている内容も良くて、ここで気づいたのは、ASMRのときの声量の制約によって、雑談はより「取るに足らなくなる」ということ。ASMRっておもしろい話をするのに向いていない。抑揚もつけにくいし、息漏れ声ではあまり長くも喋れない。そうすると、話題はより小さくなっていく。普通なら話されない些細なことが話されて、普段なら拾われない退屈なコメントが拾われる。おもしろい話と同じくらいおもしろくない話をしてほしいってこちらの(おれの)わがままが、ここでは叶っていた。

あとはその、眠っている飼い猫にすら聞こえていないであろう小さな声が、電気信号に写しとられて私たちの耳まで届くっていうことそのものが、やっぱり感動的なことのように思えて……大げさ?だとは思うけど、本当なら誰にも聞こえなかったはずの声が聞こえるってそれは、どうしたって特別なことだよ。

輝いて・手を振って

NIJIROCK NEXT BEAT、中高生の頃の自分が好きで聴いていた音楽たちがVTuberたちの声によって新しく響いていて、ロックってまだ全然おれにとって思い出とかじゃないのかもって恥ずかしめなことを素直に思えた。

全編良かったのは前提としつつ、個人的なハイライトについて忘れないうちに書いておく。

まず緑仙の東京……好きなバンドの好きな曲だからって歌い始めた瞬間から嬉しくなってたんだけど、曲が進むうちに少しずつ、緑仙がこの曲を歌うことの必然性みたいなものに気づいていった。おれは緑仙が東京の地名、新宿とか高円寺とか池袋とかの名前を出しながら雑談を進めていくのがすごく好きだから、そんな緑仙が東京を歌ってくれたのが嬉しかったんだった。あとラスサビの(あなたの帰りを待つ)を歌わずに、しっかりコーラスで再現してくれたのも良かった。あそこはやっぱりあれがいい。

そして絶対的な関係。赤い公園って口にするだけで少し感傷的な気分になってしまうことは許されたい。今年の3月に「Vにライブで歌ってほしいけどフルで1:40しかないからおそらく叶わない」って言いながらリンクをツイートしていた。念願叶ってよかったね。そうなるとは思っていたけどこの曲、Vが歌うとクールさと裏腹なこわさが際立つ。「中の人が企んでることは/目論んでることは/私たちだけの秘密」……ちゃんと聴いたのは久しぶりだったけどやっぱり驚異的にポップで、この曲が永遠の身体によってちゃんと歌われ、継がれていってるってそういう意味でもぐっときた。

「おやすみ泣き声、さよなら歌姫」はクリープハイプを好きになったきっかけの曲だった。ちょっと前に仙河緑くんのアカウントを眺めていたとき「スマブラギターエロゲ漫画音楽っていうテンプレみたいな大学生の自分、結構気に入ってるんだ」ってツイートを読んで、あれもう大学生になったんだっけって驚いてて、だから「僕も随分歳をとったよ こんなことで感傷的になってさ」って歌っていたのが刺さった。この曲を聞くとほとんど同時に、あの大東駿介がオタクっぽい青年を演じてるMVを思い出してしまうわけだけど、それもあってかおれにとってのこの曲にはモラトリアムの気だるい空気が漂っていて、それが今の緑仙にすごくよく似合っているように思った。

「横浜の地に、一人佇む、女の子がいましてね」って語りの時点でガッツポーズしちゃったよ。嘘っぽく笑う少女が歌う透明少女! 向井秀徳が描く少女の像ってなんかすごく雨森に近いような気がする。札幌ですら網走とはかなり遠いんだけど……。澄んだ声で歌われるとメロディの良さが際立つって、似たようなことはミッシェルの連打でも思った。こうなってくるとやっぱり世界の終わりもいつか聴きたいと思ってしまうな。

そして「TEENAGER」……「若者のすべて」とか「銀河」ではないあたりになにか強い意思があるように直感したけど、それについては聴いているうちすぐに想像できた。「ティーンネイジャー 何年先だっていつでも追いかけてたいのです」って永遠の17歳が歌う? 雨森小夜って自然と永遠に17歳なんじゃなくて、そうあろうとして永遠に17歳なのかもしれんね。「いつも物足りない」し、「とにかく君に触れられない」のは私たちだけではないのかも。

ピエロ縛り歌枠でアカペラで歌われていたサーカスナイトが、生バンドの演奏と共にアリーナで歌いなおされるってそれだけで嬉しかった。やっぱり「僕は冴えないピエロで」って言ってほしいし……でもなにより息を飲んだのは最後の、こちらに背中を向けながら綱渡りの仕草で少しずつ透明になっていく演出だった。「目の前で 魔法が解けてゆく」……バーチャルって魔法を解くことすらできてしまう。

ちょうど本編が終わったくらいのタイミングで家を出る用事の時間になってしまって、アンコールは外からiPhoneで観ることになった。でも結果的には、夜にバスを待ちながら「ジェットにんぢん」を聴くっていう謎にいい感じのシチュエーションが生まれたから良かったのかも。あの曲の掴みどころない、それでいてどこかシリアスな雰囲気はSEEDs1期のふたりにすごくよく合っていた。

そしてバスに乗って「深夜高速」を聴くという……「10代はいつか終わる 生きていればすぐ終わる」ってその時期に天啓を受けた道化師が歌うことの切実さよ。ピエロの昔の話が好きだからこの2番Aメロのパートが充てがわれていたのは嬉しかった。「見苦しいほどひとりぼっち」って歌に「まあ孤独じゃないっすよ」ってあの声が聞こえてくる。後半のがなりには、自分の歌声のプレーンさに嘆きに近い語りをしている人とは思えないくらい独特な色があってよかった。歪みの粒が荒い感じで、イベントにかけて言うならBD-2よりRATっぽいというか。

「ぶっ生き返す」もそれで終わりだとして満足いくくらいに凄まじかったのに……BABY BABYのイントロが流れた瞬間、思わず電車で声が出そうになった。VTuberがカバーすることによって既存の曲の聴こえ方が変わるのが好きっていう話は度々しているけど、まさかこんな絶対的な曲さえもそうだとは。峯田が歌う「永遠に生きられるだろうか」と、力一や緑仙が歌う「永遠に生きられるだろうか」は言葉の力点というか、指向性がまったく違うように思える。あとは、「何もかもが輝いて 手を振って」って、文字通りに輝くことでしか現れられない光たちが、手を振りながらそれを歌うことの乱反射した美しさとかもあって……。

なんというかこのイベントを観ていたら、EDMと四つ打ちロック全盛の時代にありながら90s~00s邦楽ロックの幻を追い続けていた高校生の頃の私がちょっと報われたように思えた。お陰でいま、好きな人たちが何を考えているのかが少しだけわかる……ような気持ちになれている。

ボイスロイドの言葉

昨日の夜はボイスロイドの声が聞きたい気分だったのでのらきゃっとの配信アーカイブを流しながら寝た。

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ゲーム実況を画面を見ないで聞くっていう不誠実な受け手ではあるんだけど……紲星あかりの声をもって伝えられるのらきゃっとの言葉を目を瞑って聞いているとき、純粋に言葉の手触りだけを確かめられるような、不思議な感覚があった。熱を持った口語のバトンが、抑揚のない合成音声によって繋がれていくことの新鮮な違和感というか。のらきゃっとの配信はたびたび見ていたのに今までそういうことを思わなかったのは、たぶん画面上で動くのらきゃっとの身体が、その声の抑揚のなさを感じさせないほどいきいきとしていたからだと思う。

でもボイスロイドの、身体の動きを伴わない声だけを聞くこと自体はこれまでだって何度もあったはず。解説系動画のナレーションだったり、ポエトリーリーディング作品だったり。それなのに、ちょっとした感動が昨日になって初めて訪れたのは、やはりそれが紲星あかりの声である以前にのらきゃっとの言葉だったからだと思う。「パトカーの音」「現場に急行しちゃおうかな」「聞こえなくなっちゃった」。「査定が下がった」「私は真面目に」「私は真面目に仕事をしたつもりだったのに」。切り離されて平坦に話される言葉には、けれど確かに口語の余熱があった。熱くもなく冷たくもない、ちょうど体温みたいな温度の言葉だったから、その形体に純粋に触れることができたんじゃないか。「聞こえなくなっちゃった」という言葉を目を瞑って聞いているとき、「聞こえなくなっちゃった」という言葉そのものが浮かび上がってきた気がした。

普段は言葉を取り巻く声の、あらゆるノイズのほうを好きでいる自覚がある。トーンや、呼吸や、言い淀みや……「話し方のことが好きで内容はそのあとについてくる」みたいなツイートも少し前にしたと思う。でも、それらのノイズが完全に取り払われてしまったとしても、その後には、確かに選び取られた言葉が残るらしい。

ゲームをする人

配信をぼんやり眺めていたら高校のときに好きだった人のことを思い出した。別に声が似ていたり、喋り方が似ていたりしたわけではなくて……「あの子戦国無双めちゃくちゃやり込んでるらしい」って変な噂を聞いたのがその人のことを気になりだしたきっかけだったから、配信者の、今ひとりでゲームをしているっていう状況のほうに目を向けたときに、ふと頭をよぎった。結局その噂が本当だったのかは最後まで知れなかったんだけど……。

ゲーマーへのフェチみたいなものがあるように感じる。ゲームやってる女の子すき、にはとどまらない、なにか憧れ?のようなものが。というか、録画した東京エンカウントは延々とループで流していたんだし、ハイスコアガールから入ってピコピコ少年まで熱心に読んでいたんだから、性別とかは関係なさそう。アニメたくさん観ている人、にも憧れはするけど、それはおおむね知識に対してで、視聴行為そのものに惹かれてはいない気がする。画面を見つめながらコントローラーを操作している、その空間自体が強い魅力を持っているように感じる。

受動と能動の両方が必要とされるゲームプレイを、ひとつの完成されたサイクル、閉じた円環運動とみなすことはできそうだ。プログラムと行為を絶えず交換しつづける……ならその、画面と身体とで完結した世界に没頭する人に惹きつけられるのも、なるほど理解できる。なにかに夢中になっている人は美しい、と言ってしまえば簡単だけど、夢中の対象が仮想のもので、しかもそこに働きかけをしている人の美しさは、その定型文に収まりきらない。