石少Q

けし粒のいのちでも私たち

カリンバと(見えない)指先

ここ数日間、眠るときには春日部つくしの「カリンバ雑談」の再生リストを流している。

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私が春日部つくしの配信を観るようになったのはごく最近のことである。もともと熱心に視聴のフィールドを拡げるようなタイプではないので、黎明期から活動している人の周知の魅力に、少し遅れて気がつくようなことは多かった。春日部つくしに関しても、チャンネル登録こそしていたものの、配信はしばらく見過ごしていた(誰も配信していない時間が生まれるのがいやで、おすすめにVTuberという文字を見かけ次第チャンネル登録するようにしていたら、いつの間にか600人近くまで増えていて、自分でもなにがなんだかわからなくなっているのである……)。

きっかけはたまたま開いた雑談配信だった。そのときの私の、アーカイブよりは生配信、ゲームよりは雑談という気分に、「いつだって常夏さいたま」という重言かつ季節外れな、気の抜けた配信タイトルは優しく感じられた。生配信が観たい気分とは、つまりどこか心寂しい気分なのである。ちなみに配信当日のさいたま市の平均気温は16.6℃だった。

私の視聴の好みそのもののような、取るに足らない生活の話(運動不足、健康診断、食習慣……)に加えて、とりわけ印象的だったのは、そのときどきの話題に応じた、全身3Dならではの身振りである。軽いダンスやワンツーパンチなどの、見栄えのする大きな動きはもちろんとして、なんとなく前後に揺れたり、顎に手を当てたりする「仕草」のレベルの小さな動きも、言葉に瑞々しいニュアンスを与えている。身体言語も他ならぬ言語であることを思い知り、同時にVTuberが3Dを用いて(単なる)雑談をすることの意味を、ここで改めて実感していた。

それ以降、春日部つくしの配信アーカイブを遡るようになり、眠るときには「カリンバ雑談」を流すようになったのだが……このシリーズには、少し意外なところがあった。

配信上で楽器演奏をするVTuberは少なくない。ピアノやギターのほか、わりあい容易に入手と演奏ができるカリンバも、定番のひとつに存在している。深夜でも近隣を意識することなく、配線要らずで音を載せることができる点も適しているのだろう。そして、その多くは癒し効果のある音色にあやかりながら、睡眠導入として言葉少なに楽曲を練習したり、ASMRも兼ねて、囁き声とともに鍵を弾いたりしている。

他方、春日部つくしの「カリンバ雑談」は、ある意味で通常の雑談配信とそう変わらなかった。聞き取りやすい明瞭な喋り声で、取り留めのない話をする。これはスピーカーで音声を小さく流したい私のような者にとっては非常にありがたかったが、睡眠導入を謳う配信においては珍しいことだろう。カリンバは単調なメロディをぽろぽろと鳴らされるにとどまっており、手持ち無沙汰のようにも思える。冒頭のアナウンスの前後を飾り付ける分散和音が、配信上で唯一、意味を持ったフレーズなのだろうか。「みなさんはお布団に入り、電気を消して、スマホを伏せて……」

眠るか、眠らないかの瀬戸際で澄んだ声を聞いていると、その隙間を縫うカリンバの音が、なにかBGMとは異なる役割を果たしていることに気づく。そしてそれは、カリンバの音が声の隙間を縫っていること、それ自体によってもたらされているのだと思う。配信を聴くと、まったく厳密さはないが、発声と、カリンバの発音が、多くの場面でわずかにずれていることがわかる。これが人間の生理的な仕組みなのか、本人のくせなのか、たんなる偶然なのかはわからないが、この自分自身に合いの手を打つような運動に、言葉のリズムを作る、見えない指先を感じ取ることは可能だろう。

机を撫でる親指、ないし頬を叩く人差し指のように、人は喋りながら、なにげなく指先を動かすことがある。それは最小のボディランゲージと呼べるかもしれない。発話のテンポを整えながら、ときによろこびや、苛立ちも表現する。衆目の緊張感があれば尚更だろう。しかしそれらは、VTuberの配信においては、技術的な制約によって隠されてしまうことがほとんどである(わざわざ3Dで雑談でもしない限り!)。それが表現されることを望んでいるか、望んでいないかはべつにして、きっとあらゆるVTuberが、わずかにしか動かない2Dの身体の内側に、あるいは16:9のフレームから見切れた領域に、雑談のリズムを作っていくための仕草を秘めているのだと思う。

春日部つくし本人をしてその「弾かなさ」に苦笑してしまう「カリンバ雑談」の、それとない演奏のなかに私たちは、スマホを伏せて、目を閉じていてもわかる、言外のメッセージを聴取することができる。その集積が、3Dとはべつのかたちで、二次元の指先のイメージを象る。楽しげな喋り声と、カリンバの音色を通じて、机や、頬の幻の上で、ゆめうつつに言葉のリズムを取り始めるかもしれない。そして、朧げな子守唄を経て、いつの間にか眠ってしまったあとの翌朝に、他者の手や指先というものが、もっとも古い記憶から私たちを安眠に導いていたことを、流れているままの音声を聞く、布団のなかで思い出すのである。

こうして昼の作業中から夜の眠りに至るまで春日部つくしの配信を流して、埼玉、埼玉と話す声を聞いていると、否応なしに意識はそちらのほうを向いてくる。ひとりのアーカイブを集中的に視聴することの楽しさを思い出しながら、それとなく武蔵野線の路線図を眺めていると、私の居住地から埼玉方面までは、起点と終点の定義の上では「上り」になることを知った。距離的に東京からは離れるのだが、なるほど「埼玉湾」の存在を主張する春日部つくしに惹きつけられて埼玉に向かおうとしているのだから、私の来る聖地巡礼は「上り」に他ならない。