石少Q

けし粒のいのちでも私たち

軋む次元の透過光

私は「二次元」にあこがれているのではなくて、ただ「遠いところ」に行きたいだけなのではないかと、たまに思う。なぜなら、実写のコンテンツにあまり触れなくなったいまでも、ときどき思い出し、聞き返しているラジオのアーカイブがある。映像はないが、パーソナリティのかれらは紛れもなく三次元の人間である。つまり、その「遠さ」は物理的、ないし地理的な距離の意味ではない。過去や未来までの時間的な距離。あるいは閉鎖性、不可能性、そして非現実性までの、(結局のところ)次元の距離の意味である。何年も前に、ある密室で、声だけを保存されたラジオは、いまの私を癒やすのにじゅうぶん「遠かった」。たとえ根ざしている次元が、私と同じであったとしても。

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ときどき思い出し、見返している動画がある。

DIYVTuber、東雲はつりが室外機を設置している動画。実写の背景とVTuberの身体が重なった写真や映像はもともと好きだった。ほんとうは仮想(V)よりも拡張(A)と呼ばれるべきなのだろうか。そのような名前の問題はひとまず措くとして、東雲はつりのこの動画の魅力のひとつは、実写が「背景」に留まっていない点にあるだろう。二次元の身体が、三次元の室外機に、同じ前景のなかで触れている。それは、それだけで驚くべきことだった。しかし、それだけではないようにも思う。

ともすると見て見ぬふりをしてしまいそうな違和感に、おそらく私は惹きつけられている。室外機を担ぎ上げたときの残像のような歪み。あるいは配管の取り付けに移ったときの壁面の欠損。間違いなく室外機の重さを全身で受け止め、配管の整理を淡々と行っている東雲はつりの、身動きのリアリティに対して、そのような動画上の非現実的な破綻は、私には、二次元と三次元の互換不可能性、つまり遠すぎる距離を、力業で縮めようとするさいに生じる「軋み」のようなものに思えた。

「二次元になりたい」という声が、思わず頭のなかで洩れることがある。VTuberという存在を、そのような願いの象徴のように見ることもできるかもしれない。しかし、そのあこがれの「二次元」は、必ず「遠いところ」にある。考えてみれば当然のことだが、この世界がそのまま「二次元」になっても意味がない。「メタバース」をめぐる言説に対する乗り切れなさは容易に思い出せる。また「二次元」がこの世界に肉薄しても、あこがれにはならない。リアリスティックな映像を有した最新のゲームよりも、数十年前のいびつな風景のなかを歩いていたいと、私は思う。

「だせえノンフィクションに疲れたな」「漏れもうフィクションになりたいな」と歌うひがしやしきの「まんがタイムきららになりたい」という率直な願いにも、やはり果てしない距離があった。かれはその距離に対して、音楽のなかで「ダウンコンバート」を行う。「自分で自分を変えていく/少しずつフィクションになっていく」。作品を残すということは、来るべき未来に対して、忘れられてゆく現在に、ひとつの標を打ち立てることだと思う。そして、その標に書きつけることは、夢でも、嘘でもいい。上手くいけば、その連なりが、誰かから見た自分を、そして自分の忘れた自分を、夢や、嘘の通りに有形化してくれる。ひがしやしきの音楽には、そのような意味で、目的と方法の結びついた説得力と、切実さがあった。

付言すれば、「自分で自分を変えていく」ことが作品を残す意味のひとつであるならば(思えばVTuberの音楽には、VTuberの存在をめぐる自己言及的な作品があまりにも多い)、「他人が自分を変えていく」ことが、二次創作の営みであるとも言える。掴みどころのないように感じていた新人VTuberの輪郭が、ファンアートの視線を経由して捉えられることは少なくない。二次創作タグのタイムラインに、誰かが打ち立てる匿名の標。その夢や、嘘の集積によって、VTuberもまた「少しずつフィクションになっていく」。

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あこがれの二次元は、触れた瞬間に消えてしまう。次元の「軋み」は、その不可能性を前提にして、尚も触れようとする営為のうちに現れる。ひがしやしきは、そうした次元の軋轢を音楽のうちに表現しながら、そこで歌っている憧憬に、じっさいに二次元のビジュアルで作品を残していくことで接近している。

東雲はつりの動画の乱れは、可視化され(てしまっ)た「軋み」、つまり二次元と三次元の「距離そのもの」の象徴として、私の目に映った。触れた瞬間に消えてしまうということは、言い換えれば、それは「遠いところ」である限り、あこがれであり続けるということである。だから私は、その「遠さ」を確かめるように、「距離」の映り込んだあの動画をときどき思い出し、見返していたのだと思う(「VTuberによる室外機の設置」というあの動画の本筋のおもしろさが大前提にあることは、言うまでもない)。

そして、そのようなフレームをVTuberという存在そのものに翳してみると、かれらの二面性に改めて気が付く。二次元であるかれらは、私にとっての古いラジオやゲームのような、あるいはまんがタイムきららのような、「遠いところ」であり、三次元に根ざしたかれらは、ときに悩み、間違えながら、触れえない二次元として振る舞い続ける、苛烈な「軋み」を抱えた存在である。配信者によって、視聴者によって、あるいはその瞬間によって、どちらが映るかは異なるだろう。おそらく、私が飽くことなく眺め続けているのは、揺れ動くかれらの、そうしたプリズム的分光の、不規則なきらめきである。ときに薄暗い自室のなかに溜まり、ときに遥か「遠いところ」まで、一直線に伸びてゆく。

カリンバと(見えない)指先

ここ数日間、眠るときには春日部つくしの「カリンバ雑談」の再生リストを流している。

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私が春日部つくしの配信を観るようになったのはごく最近のことである。もともと熱心に視聴のフィールドを拡げるようなタイプではないので、黎明期から活動している人の周知の魅力に、少し遅れて気がつくようなことは多かった。春日部つくしに関しても、チャンネル登録こそしていたものの、配信はしばらく見過ごしていた(誰も配信していない時間が生まれるのがいやで、おすすめにVTuberという文字を見かけ次第チャンネル登録するようにしていたら、いつの間にか600人近くまで増えていて、自分でもなにがなんだかわからなくなっているのである……)。

きっかけはたまたま開いた雑談配信だった。そのときの私の、アーカイブよりは生配信、ゲームよりは雑談という気分に、「いつだって常夏さいたま」という重言かつ季節外れな、気の抜けた配信タイトルは優しく感じられた。生配信が観たい気分とは、つまりどこか心寂しい気分なのである。ちなみに配信当日のさいたま市の平均気温は16.6℃だった。

私の視聴の好みそのもののような、取るに足らない生活の話(運動不足、健康診断、食習慣……)に加えて、とりわけ印象的だったのは、そのときどきの話題に応じた、全身3Dならではの身振りである。軽いダンスやワンツーパンチなどの、見栄えのする大きな動きはもちろんとして、なんとなく前後に揺れたり、顎に手を当てたりする「仕草」のレベルの小さな動きも、言葉に瑞々しいニュアンスを与えている。身体言語も他ならぬ言語であることを思い知り、同時にVTuberが3Dを用いて(単なる)雑談をすることの意味を、ここで改めて実感していた。

それ以降、春日部つくしの配信アーカイブを遡るようになり、眠るときには「カリンバ雑談」を流すようになったのだが……このシリーズには、少し意外なところがあった。

配信上で楽器演奏をするVTuberは少なくない。ピアノやギターのほか、わりあい容易に入手と演奏ができるカリンバも、定番のひとつに存在している。深夜でも近隣を意識することなく、配線要らずで音を載せることができる点も適しているのだろう。そして、その多くは癒し効果のある音色にあやかりながら、睡眠導入として言葉少なに楽曲を練習したり、ASMRも兼ねて、囁き声とともに鍵を弾いたりしている。

他方、春日部つくしの「カリンバ雑談」は、ある意味で通常の雑談配信とそう変わらなかった。聞き取りやすい明瞭な喋り声で、取り留めのない話をする。これはスピーカーで音声を小さく流したい私のような者にとっては非常にありがたかったが、睡眠導入を謳う配信においては珍しいことだろう。カリンバは単調なメロディをぽろぽろと鳴らされるにとどまっており、手持ち無沙汰のようにも思える。冒頭のアナウンスの前後を飾り付ける分散和音が、配信上で唯一、意味を持ったフレーズなのだろうか。「みなさんはお布団に入り、電気を消して、スマホを伏せて……」

眠るか、眠らないかの瀬戸際で澄んだ声を聞いていると、その隙間を縫うカリンバの音が、なにかBGMとは異なる役割を果たしていることに気づく。そしてそれは、カリンバの音が声の隙間を縫っていること、それ自体によってもたらされているのだと思う。配信を聴くと、まったく厳密さはないが、発声と、カリンバの発音が、多くの場面でわずかにずれていることがわかる。これが人間の生理的な仕組みなのか、本人のくせなのか、たんなる偶然なのかはわからないが、この自分自身に合いの手を打つような運動に、言葉のリズムを作る、見えない指先を感じ取ることは可能だろう。

机を撫でる親指、ないし頬を叩く人差し指のように、人は喋りながら、なにげなく指先を動かすことがある。それは最小のボディランゲージと呼べるかもしれない。発話のテンポを整えながら、ときによろこびや、苛立ちも表現する。衆目の緊張感があれば尚更だろう。しかしそれらは、VTuberの配信においては、技術的な制約によって隠されてしまうことがほとんどである(わざわざ3Dで雑談でもしない限り!)。それが表現されることを望んでいるか、望んでいないかはべつにして、きっとあらゆるVTuberが、わずかにしか動かない2Dの身体の内側に、あるいは16:9のフレームから見切れた領域に、雑談のリズムを作っていくための仕草を秘めているのだと思う。

春日部つくし本人をしてその「弾かなさ」に苦笑してしまう「カリンバ雑談」の、それとない演奏のなかに私たちは、スマホを伏せて、目を閉じていてもわかる、言外のメッセージを聴取することができる。その集積が、3Dとはべつのかたちで、二次元の指先のイメージを象る。楽しげな喋り声と、カリンバの音色を通じて、机や、頬の幻の上で、ゆめうつつに言葉のリズムを取り始めるかもしれない。そして、朧げな子守唄を経て、いつの間にか眠ってしまったあとの翌朝に、他者の手や指先というものが、もっとも古い記憶から私たちを安眠に導いていたことを、流れているままの音声を聞く、布団のなかで思い出すのである。

こうして昼の作業中から夜の眠りに至るまで春日部つくしの配信を流して、埼玉、埼玉と話す声を聞いていると、否応なしに意識はそちらのほうを向いてくる。ひとりのアーカイブを集中的に視聴することの楽しさを思い出しながら、それとなく武蔵野線の路線図を眺めていると、私の居住地から埼玉方面までは、起点と終点の定義の上では「上り」になることを知った。距離的に東京からは離れるのだが、なるほど日本の首都は埼玉だと嘯く春日部つくしに惹きつけられて埼玉に向かおうとしているのだから、私の来る聖地巡礼は「上り」に他ならない。

マイ・インターネット

このブログには、VTuberを話題の中心に据えていない文章のための「雑記」というカテゴリがある。これが設けられているということは、そういう内容も書いていきたいと過去の私が思ったことになるが、かれこれ一年くらい更新していなかった。オフラインの生活のことを書く場所はべつにあるので、VTuber以外のインターネット・オタクコンテンツという、(私にとって)ごく狭い領域を引き受けているこのカテゴリに、出番が少ないのは当然のことかもしれない。

そんな折、はてなブログ上でnakoさんから通知が来ていた。「My Internet」という、リレー形式で質問回答をする企画が行われており、それの次走者として私をコールしてくれたらしい。リレーという響きに十年近く前のSNSや、さらにそれ以前のプロフィール帳的な気恥ずかしさを覚えつつも、数多くいる書き手のなかから、私を思い出してくれたことはうれしかった。それに、これ以上「雑記」に相応しい内容もないだろうと思う。

以下はその企画の質問と、私の回答である。密室で、合成音声のゲームマスターと会話しているような謎の感覚があった。ぱっと答えの思いつくものだけを選んだら、元のものよりだいぶ少ない量になってしまったが、守備範囲外のものに否定を連ねるよりはましだということで勘弁してほしい。リレーの継続はべつの支流に任せて、私はここで海になります。

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どんな種類のYouTube動画を見ていますか?:バーチャルYouTuberの生放送、動画、切り抜きが大半を占めている。あとは好きなミュージシャンのMVやライブ映像と、最近はボイスロイド関連の動画もちょっと観ている。

TikTokを使っていますか? どんな動画が出てきますか?:使っていない。YouTube Shortsもそうだが、再生ボタンを押すまもなく動画が流れるのが苦手なんだと思う。

インスタグラムをどう使っていますか?VTuberの投稿やストーリーズを見ている。ぽんぽこ、もちひよ、アズリム、でろーん、家長、クレアさんなどが特にいい。あと昔の友達のほとんどはツイッターからインスタグラムに移っているので、そういう人たちの生存を確認したり、逆にされるために出掛けた先で短いストーリーズを投稿したりしている。

ツイッターでつぶやいていますか?:たくさんつぶやいている。なにか大きな配信があるときにはつい実況のようにツイートしてしまうので、フォロー数の少ない人には申し訳ないと思っている。

バズったことはありますか? どんな感じでしたか?:ないが、なにか作品を投稿したあと断続的に通知が来ているときの、心拍数が上がる感じはあまり得意でない。作品を見てもらいたい気持ちと、そうした二進数的なレスポンスに対する微妙な感情に落としどころを見つけたいと思う。

どこでニュースや情報を得ますか?ツイッターのタイムラインとYouTubeのトップで大きなニュースだけを知るような現状になっていて、あまりよくないと思っている。噂話も、不祥事も、動物園のトピックもべつにいいから、社会生活を営んでいく上で知らないとまずい最低限のニュースだけを教えてくれる、信頼のおけるツールが知りたい。

メディアでポジティブなトレンドは? ネガティブなトレンドもひとつ:ポジティブにもネガティブにも捉えられる話として、ここ最近、一部のVTuberが配信の切り抜きを禁止し始めていることは印象的だった。多くのVTuberたちは「開く」動きをずっとしていたが、これから少しずつ「閉じる」方法を考えるフェーズに入っていくのかもしれない。個人的にはいいことだと思う。

キャンセルカルチャーはあなたにとって何?:私にとって何ということはないが、VTuberを観ていると、誰かの過去と現在を、どこまで地続きに捉えるべきか考える機会は少なくない。すべてが許されてはいけないし、すべて許されないのもいけない……という。

お気に入りのニュースレターはありますか?:ない。拡大解釈するなら、VTuberYouTubeのコミュニティに投稿するテキストは、多くの人に読まれる目的で書かれていない規模感が気に入っていてよく読んでいる。特に好きなのは紫水キキの手紙のような投稿で、八月末の文章などは、それが活動休止期間だったことも含めて印象深い。

ひぐらしはもう鳴いているだろうか。

キキはようやくこの間今年初めてセミの声を聴いた気がしました。

またね。

どんなポッドキャストを聴いていますか?:聴いていない。雑談配信は春日部つくしのものを最近はずっと聴いている。

VineTumblrにノスタルジーを感じますか? そうならなぜ?Vineはテンションが高くて苦手だった。Tumblrは好きなイラストレーターに利用している人が少なくないので、いまも見に行くことはある。熱心に見ていた過去はないが、ノスタルジーは感じる。理由はしらない。

最近よく聴いた音楽、プレイリスト、アルバムはありますか?:にじフェスのあとは(主に前夜祭のMOGRAの影響で)葉加瀬のリトルハミングとやしきずのBlackFlagBreaker‼︎をずっと聴いていた。VTuberから離れるなら、いまは空前のアンビエント・ブームが訪れている。昔は眠たくなるだけだったのだが……SonogramのCompendiumWilliam BasinskiWatermusic Ⅱ、あとTapes and Topographiesのアルバムはどれもよかった。

インターネットの基本的なことで愛しているのは?:コミュニケーションの中心が文字にあるところ。会いにいけない人たちの話が聞けるところ。たくさんの人の作品が観られるところ。それらの多くがいつ消えるかわからない不安定さのなかでひとまず残るところ。

最後にインターネットで得た楽しみは?:大きな楽しみはFANTASIAを含むにじフェスの三日間から得た。小さな楽しみはいまも適当に流しているVTuberの配信から得ている。最近はそのようなコンテンツを経由して人と交流することも少し増えて、怖いこともあるが、それも楽しいと思う。

待機所考(雨とバス停)

数十分後、数時間後、数日後に始まる配信のことを、私たちは予め知っている。ときには、ほとんど無意識的にYouTubeを開く指先が、告知のツイートよりも先にその存在を見つけている、いつからか「待機所」と呼び習わされている場所。それを目にした瞬間から、私たちの生活には新たな引力圏が生まれる。この配信が始まるまでにシャワーを浴び終えよう。コンビニに行こう。明日のこの時間までに、作業を片付けてしまおう。「遅刻読み」というある種の信頼のかたちは、私たちの呼吸が、既に私たちだけのものではなくなっていることの証拠だ。

「待機所」という、馴染み深いようでいて、じつは日常さほど聞くことのない言葉を試しにツイート検索してみると、その多くがバーチャルYouTuberに関連していることが窺える。普通は取り立ててツイートするような言葉でもないので当然と言えば当然なのだが、主要な活動場所であるYouTubeの特有の仕様や、繰り返しの告知が慣習化している活動形態、ゆるやかな連帯のなかで語彙が伝播しやすい空気など、さまざま要因を被って、用語は少しずつ人々のあいだに定着していったと想像できる。そして、たんなるシステムの枠組みにすぎなかったページたちに、三次元的な空間の比喩が与えられたことは興味深い。しかし、気づけばそのようにして言葉だけに親しんでいる「待機所」とは、私たちにとって、いったいどのような場所だっただろうか。

いつか卯月コウは、「卯月コウを待っています」という純粋な文言の抗しがたい魅力から、チャンネル名に英字を併記できないと語った。そう、確かに私たちにとって、VTuberの通常配信を待つときの感覚は「待ち合わせ」に他ならない。たとえ二桁以上の待機人数が表示されていたとしても、多くの人々のモノローグがチャット欄に溢れていたとしても、開演前のフロアなどとはまったく異なる素朴な時間が、液晶の前には流れている。そのとき待機所は、教室であり、昇降口であり、駅前であり、街角であり、交差点であり、玄関先だっただろう。コウの場合であれば、彼と私(たち)はそこで待ち合わせをしたあと、教室でたむろしたり、つくば山の見える畦道で立ち話をしたり、さまざまなゲームの世界にまで飛び移ったりするのである(ゲームの内容やそれに対する没入の度合いによっては、コントローラーを握って画面に向かう姿を、同じ部屋から眺めているようなイメージになることもあるだろう)。

あるいは、配信開始時刻を数年後に設定して便宜的に作り出される「フリーチャット」という常設の交流スペースに、「とりあえずここで待ち合わせ」という文言を残した紫水キキは、待機所のそのような性質に自覚的だったのかもしれない*1。この「とりあえず」の感覚は、フリーチャットという場所を考える上でも重要だ。フリーチャットは、通常の待機所のようなアポイントメントの効力を事実上持っていない、予感の場所である。あそこに行けばあの人がいるかもしれない、もしくは、あそこに行けばあの人を感じられる、というような、片想い的な運動。来なくてもいいから待つ、その代わり、私はいつここを去ってもいい、厳密な契約のない「とりあえず」の待ち合わせ。キキさまがそこに「聖域-サンクチュアリ-」というフレーズを冠したのも、たんなるいたずら心ではなかったように思える。

誰かを待つ時間には、約束を結んだ双方向的なものと、ただ一方通行的なものとの二種類がある。VTuberの配信における待機所は前者に属し、それがフリーチャットとして射程を伸ばすと、曖昧な約束・予感という両者の中間領域に移るのだった。すると後者の一方通行的な待ち方とは、場所的な制約を持たないVTuberの視聴においては、待機所も、フリーチャットもないなかで、ただ漠然とその人のことを考える時間だろうか。だとしたらそのとき、私たちはどこにいるのだろうか。むろん、現実的には家や、学校や、職場にいるのだが、ふと、その人のことを思い出して、いまが紛れもない「待機所のない待ち時間」であることに気づいたとき、私たちの意識は、瞬間的に仮想の場所まで飛ばされていやしないだろうか。内面化された待機所のイメージが、もはや待機所を必要としなくなる。これは「待機所」が、三次元的な比喩であるがゆえの現象だろう。いつか約束をして待ち合わせた場所に、今度は一人で迷い込むように……そういえば久しく姿を見ていなかった雨森小夜のことを、私がふいに思い出すとき、いつもバス停の幻を垣間見ているように感じるのも、きっとそのためだ。

このきわめて個人的な幻視を、少し観察してみたい。そこには制服とバス停という組み合わせのステレオタイプも関わっているのだろうが、もっと直接的に、2020年の「帰れない百物語」で、雨森が語っていた怪談のイメージが、強く影響しているように感じる。

【#帰れない百物語】100個怖い話するまで帰れない2020【月ノ美兎/にじさんじ】 - YouTube

ひとりでに知らない音声を流し始める無線イヤホンの奇妙を描いた『混線』という怪談は、百物語の配信開始から八時間が経とうかという頃に紹介された。夜が明けそうな時間帯の眠気のなかで、雨森の澄んだ声と、巧妙な動画編集と、文学少女らしい静的な物語作りが、そこだけ明らかに異質な世界だったのをよく覚えている。そして、その物語の舞台となっていたのが、田舎町の寂れたバス停だった。

無線イヤホンと田舎のバス停という、物語にしては微妙に現実的な組み合わせが、バーチャル世界の女子高生の、クラシカルな佇まいの異様さに重なったのかもしれない。あるいは、「混線」や「神隠し」といった作中の要素が、やたらと電波が悪かったり、ふいに音沙汰がなくなったりする少女の、不安定で儚げな印象と紐付いたのかもしれない。作品と作者を混同した鑑賞、と言われてしまえばそれまでなのだが、私が抱えている雨森小夜のバス停のイメージに、この怪談が影響していることは、とりあえず事実のようである。作者自身が物語性のなかにあるバーチャルの、さらにその奥の物語に向き合う態度の難しさにもここで気づくことになるが、その話はまたべつの機会に回す。バス停の幻の由来は、他にもあるように思うのだ。

私たちは、誰かに「待っている」ことを伝えるとき、その裏面にある「待たせている」ことの焦燥を意識する。愛ゆえに待ち、同時にそれが、相手を縛りつけることを恐れもする。そうしたアンビバレントな感覚のために、バス停のイメージは存在していたのかもしれない。会っている時間よりも待っている時間のほうが長いことを隠蔽するように、待つ対象をすり替える。これは相手を思いやる行動ではなく、自分が安心するための密かな認知の転換だ。私はただ、バスを待っているだけである。そしてその場所で、雨森小夜と「遭遇」できたならいい。イラスト以外の二次創作のために用意された「雨森と雨宿り」という印象的なハッシュタグのフレーズは、その担っている役割も含めて、ひとつの待ち方のイメージを示してくれる。雨宿りを約束することはできない。

二重化した用件をその時々で交換し、自分に対して説明をつける。待機所的な待ち合わせではなく、フリーチャット的な確信めいた予感もない、べつのなにかを待ちながら、遭遇への微かな期待をときどき思い出すような、まわりくどい一方通行の待ち方。なぜ雨森小夜を、そしてあらゆるVTuberを、そのようにして待っているのか。待つことすら叶わない状況に、VTuberの視聴の上でもしばしば立ってきた私(たち)にとって、待てるということは既に幸福の一形態である。だからきっと、できるだけ長く待つために、バスを待っている。ときおり手紙のようなツイートを寄越してくれる雨森を、待ち、忘れ、待ち、忘れながら暮らしている私のなかで、バス停は、彼女のあらゆる印象を引き受けた舞台でありながら、自分の待つ方法そのものを象徴する場所だった。

私たちの生活の直線をゆるやかにカーブさせる転轍のようなそのページが「待機所」と呼ばれるのであれば、きっとVTuberの数だけ飾られた空間のイメージが生まれる。そして、その空間を私たちが記憶したのなら、待機所のない待ち時間も、思い出したときには、そこに行ける。うれしくて寂しい時間を過ごす場所ですら密室ではないバーチャルだ。無意味な時間が待ち時間になるのなら、それも結構なことだろう。私はバスを待ちながら、雨森小夜を待っている。ふいに現れることを期待したり、その期待を忘れたりしながら、時刻表や、道路の左右に忙しなく視線を移す。だから途端に結ばれた約束の、その時刻よりも遥か早くに現れてきて、助けを乞われたとしても、狼狽えることしかできないのだ。

*1:もともと紫水キキは、たんなる通常配信のひとつとして「とりあえずここで待ち合わせ」の枠を作っていた。しかしそれは急遽中止になり、キキさまはそこから一ヶ月弱の活動休止を余儀なくされる。そのあいだに、残された「待ち合わせ」の待機所の開始時刻が遥か先まで延ばされたものが、フリーチャットとして変質したのである。なにげないタイトル付けだったのかもしれないが、それが不安のなかで活動再開を待つファンにとっての、本当の待ち合わせ場所になり、キキさまはその言葉をいまも変えずに残している。そしてどうやら休止期間のあいだも、キキさまはしばしばこの場所に、コメントとして姿を現していたようである。

生まれつかないお嬢様

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ゲリラ的に告知されたにじさんじ初のソロデビューは当然のように世間の注目を浴びて、ネタ説、企画説、ドッキリ説など、さまざまな憶測が飛び交った。そのなかで私は、壱百満天原サロメという縁起のよさそうな名前と、それによく似合う美しくてかわいらしい身体が、一過性のものとして使い果たされてほしくないと、密やかに願っていた。

そんなことを思い出したり、忘れたりしているうちに数日が過ぎて、いつの間にか初配信の時間がやってくる。がっくりする準備はできていたし、その上で平静を装うつもりでいた。おそらく多くの人がそんなふうに、液晶に対して斜めに構えていたのだろう思う。憂鬱な『エリーゼのために』とともにサロメさまと田角社長が回転する待機画面で心が疑念のほうに傾いたかと思えば、そんな不安は、数度、喉を鳴らしたあと高らかに張り上げられた第一声と、それに呼応した『フィガロの結婚』の長調によって吹き飛ばされる。

配信の順序に則って出来事を書き出したり、感想を述べたり、なにかを考えたりすることは、ここではしない。ただひとつ言えることは、新人の初配信に対して、ずっと祭りを遠巻きに眺めるような気分が拭えなかった私にとって、壱百満天原サロメの初配信は、初めて声を聞くこと、初めて動く姿を見ることの純粋なよろこびのなかで、期待と、不安と、興奮とが混じりあって直接的に届いてくる、ほとんど初めての体験だったということだ。30分という短い時間のなかで、明らかに少しずつ、ひとりの人に魅了されていく。嘘か本当か、そこではどうでもよかった。

私たちが訝しむことの正当性は、例えば公式の告知ツイートに持たされていた妙な含みによってわずかに担保されていたはずだが、そのような疑念の余地は、配信上のサロメさまの言葉や行為によってひとつひとつ、丁寧に上書きされていく。プロフィールのこと、口調のこと、髪質のこと、住民票、履歴書、マイナンバーカード、そして胃カメラ(……?)

この胃カメラについてメモを書き添えておく。私たちのよく知るにじさんじの先輩ライバーにはひとり、詳細を明かさない三次元的な身体をタイツとウィッグで覆い隠し、素肌や髪をまったく見せなければ、たとえその挙動や仕草があまりに見覚えのあるものであったとしても、VTuberとしての性質は保証され続けるという、きわめて批評性の高いふざけた行為をしている人物がいたはずだったが、すると胃カメラはどうだろうか。私たちが、その美しく平面的な身体から想像もつかない、グロテスクな三次元の写真、身体、器官を目にして、それが紛れもなく「本人」のものだったとき、VTuberの存在、壱百満天原サロメの存在はしかし……。

話を戻す(戻る場所なんてあっただろうか)。サロメさまがしきりに繰り返す「いろいろなものすべてが生まれつきですわ」という言葉が頭から離れない。公式説明文にまで「髪や口調は生まれつき」と記されていて、活動のひとつの軸になっていることは確かなようだ。生まれつき……「生まれつくこと」自体が選ばれているVTuberにとって、この残酷な言葉の意味はより複雑で、多層的だ。配信の後半、それまでとは少しだけ異なるトーンで語られた「お嬢様になりたい理由」「VTuberを始める理由」には、その意味を考えるための手助けとなるような言葉が聞こえていた気がした。長くなるが引用したい。適度に補足や省略を挟むので、細かいニュアンスは配信本編を確認するのがいいと思う(25:30~)。

わたくし先ほども言いましたが、中学高校ひきこもりでして、高校はちょっと行ったんですけれども通信制の高校とかで、大学もけっきょく失敗(中退)いたしまして……

わたくし生まれたときから、なんと言うのでしょう……なんと言えばよろしいのかしら、わたくしが……この世界にいるのは、なんだかおかしい気がずっとしていたんですのよね。なんだかこの世界にいるのが間違っているような……。この気持ち、わかりませんか?

この「ですわ口調」というのも本当に小さいときから悩んでおりまして、どうしても、他の方たちといろんなものが合わなかったりしたんですわ。「どうしてわたくしはこのような生まれでこのような見た目で」ということをずっと悩んでまいりまして、わたくしはどうしてこの世界に生きているのだろう、世界が間違っているのではないかと思っていたのですわ。

ですけれども、まあいろいろありまして、大体20歳を超えたくらいからですわね、「だからといってどうしようもないですわ!」という思考に徐々になってきたのですわ! 本当にどうしようもないですわよね、生まれたカードがわたくしコレですから!

サロメさまの明るさを保った声によって配信上ではポップに響いていたが、書き出してみればおそろしいほど繊細な言葉たちだ。あらゆる「お嬢様っぽい」性質を持つなかで、唯一「本当のお嬢様」という性質だけが「生まれついてこなかった」一般女性の齟齬と、そこから世界に対して感じる違和感、疎外感、そして自分に対する異物感、孤独感……「ですわ」と一度も口にしたことのない人間にだって理解できる、普遍性をもった問題。

私たちは壱百満天原サロメのことを、まだ何も知らない。明日にはいなくなっているかもしれない。あるいはすべて嘘なのかもしれない。それでも重要なのは、サロメさまが自嘲気味に「変」だと言った「ですわ口調」は、YouTubeライブ上では、私たちの目の前では、「頑張れば30分から1時間であれば可能」な「普通の喋り方」の暴力的な退屈さを乗り越えて、バーチャルYouTuberとして、ありのまま魅力的に輝くということだ。紫色の縦ロールや、サソリの紋章についても同じである。中学、高校、大学と自らを悩ませ続けてきた「生まれたカード」を捨てたり、書き換えたりするのではなくて、それを効果が発揮できる場所に叩きつけるということ。「変」なことを「普通」に転覆させたとき、ふたたび「変」が裏面から滲み出してしまう二元論のジレンマから抜け出して、「変」なことを「変」なままに認めるということ。

嘘か本当か、そこではどうでもよかった。ある者がそれを「誇張」として、あるいは「虚構」として後ろ指を指したとしても、私たちがサロメさまの言葉に耳を傾けて、それを信じようとした30分とそれ以降の時間があるのなら、私たちの呪わしくてどうしようもない「生まれつき」は、きっと一緒に祝福される。サロメさまが、YouTubeの「とても明るい方」の映像に励まされて、あこがれて、VTuberを志すようになったのと同じように。

存在や言葉が、その真偽を越えて三次元までをも彩るとはなんとVTuber的だろう。それに加えて、今後の方針として語られた、楽しく「過ごす」ことへの意識もまた、VTuber的で、もっと言えばにじさんじ的だ。バイオハザードまみれの予定表を見せたあと、落ち着いたら「生活のため」に週二、三は休みを取ることを断っておくバランス感覚も含めて……正直なところまだ、どこまで存在を信じていいのか不安な部分はある。けれどもう、ここまで書けたのなら、書いてしまったのなら、そんなことはどうだっていいだろう。私がこの初配信に感動した事実は、どうしたって変えようがない。

「生まれつき」を諦めながら愛するために、いろいろな方法で飾りつけて「お嬢様」になっていくサロメさまの姿を、できることなら長く見ていたいと、いまは思う。

「ですわ口調」、まあ「変」ですが……? みなさまお気づきかもしれませんがミスも多いですし、ダメなところもたくさんあるのですけれども、そんなわたくしでも楽しく過ごしていれば、その姿を見て誰かが楽しいと思っていただけるかしら、そして、百万点の笑顔を持っていただけるかしらと思いまして、そのような活動方針で、させていただきたいと思っておりますわ!

始発を待つような

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バーチャルYouTuberに感化されてなにか行動を起こすことの、特有の面白みはどこにあるのか。あのファッションモデルが着ていた服に袖を通して、あのアイドルの仕草を真似て、あのYouTuberのモーニングルーティンをなぞってみるのとはなにが違うのか。はたまた、『けいおん!』に感化されて楽器を買って、『WORKING!!』にあこがれてファミレスに履歴書を出して、『デュラララ!!』みたいな気分でサウンドトラックを聴きながら池袋を闊歩するのとはなにが違うのか。

藤原基央にあこがれてレスポールを抱えたときのよろこびと、平沢唯にあこがれてレスポールを抱えたときのよろこびが、それぞれ基づいている次元の違い。ごく簡単な非現実への誘い。まずひとつ、確かに言えることは、二次元のものに心酔して、それを真似るように行動してみたとき、私たちの気分は「二次元的に光る」ということだ。その行動をしているとき、それまで不可侵だった二次元的な光が、私たち自身の内側から湧き出てくる。

そして、そういうことがあるとして、VTuberに感化されることについて話題を戻してみれば、その特有の面白みは、アニメや漫画には描かれてこなかった、あるいは描かれていたとしても、取るに足らないものとして見過ごしてしまっていた些細な要素たちが、三次元と二次元の隙間から、明快かつ的確に、私たちのもとへと投げかけられている部分にあるだろう。それは例えば、都会でまともな宿も取らずに夜を越すときに、月ノ美兎のことを思い出さずにはいられないように。

夜遅くまで長引いた予定と、翌日の朝早い予定とのあいだ、私が池袋のネットカフェで一晩を過ごすと決めたとき、もちろん脳裏には月ノ美兎の姿があったし、私の心は(たったそれだけのことで)二次元的に光っていた。『月ノさんのノート』に書き出されていた、漠然とした寄る辺なさについての吐露を具体的に思い出すまでもなく。

……まず、この話をするにあたって、今まで住んでいた家の変遷を記そうとした。けれどなかなか適切な記し方が見当たらなかった。なぜなら、少し前のわたくしは常にリュックの中にある程度の宿泊グッズが入っていたぐらい、毎日の寝床が定まっていなかったからだ。*1

とは言っても、パック料金で2000円を超すような私の一夜はまったくの贅沢で、いつかの雑談配信で聞いたような、24時間営業のサイゼリヤで一晩を過ごした話と比べてみても、まだまだかわいいものですね……と思いながら、せっかくだからと持ってきた漫画のことは忘れて、家にいるのと同じようにiPadYouTubeを開いてみると、噂の委員長がちょうど歌枠をやっている。「委員長いまバカ面白い歌枠やってるよ」と飛んできた鳩に対して「バカ面白い歌枠ってなんだよ」とつっこみを入れたのはリオン様だったか、誰だったか……。

2022年と2013年をタイムスリップで往還しながら新旧のボカロ曲を交互に歌っていく配信もまた「バカ面白い歌枠」には違いなくて、漫画をぺらぺらめくりつつ「ちってーん」(トリノコシティ)や「ようず」(1925)の懐かしさに想いを馳せていると、終わりに差し掛かって、少しだけ改まった調子の言葉が聞こえてくる。「わたくしはね、ちょっとキツい感じの時期にこの曲をひたすら聴いて……なんかこの曲を聴いてるとね、落ち着いたんですよね」。

イントロが流れ始めて、それが『夕暮れ先生』だと気づくまでにわずかながら時間を要したのは、私自身もかつてその曲に救われていたことを、もはや忘れかけていたからだった。2012年のことなら無理もないだろう。その頃はラスサビの「あの日、僕を殴りやがった アイツに復讐するために 少しのギターと歌声を」という歌詞に勇気づけられていたような覚えがあるが、いま改めて聴くと、当時ではきっと理解できなかったような箇所に耳が傾く。

終電逃しちゃって 始発を待つような そんな時間、好きじゃ駄目かな ——石風呂『夕暮れ先生』

歌枠は終わって、漫画にも飽きて、眠いのにまわりの物音やいびきが気になって眠れずに、思ったよりも神経質な自分に気がつく。これだったらファミレスのほうがましだったかもしれないと思いながら、無料のモーニングのトーストだけは頂いて予定より早く雑居ビルを後にすると、案の定、想像よりも明るい景色に目が痛む。世界の終わりを探すような感傷は確かに抱えつつ、しかし「朝方 僕はひとりぼっち」のような気がしなかったのは、イヤホンから聞こえてくる懐かしい音楽と、VTuberの声があったからだ。

*1:月ノ美兎「あなたの家」 p.25, 『月ノさんのノート』, KADOKAWA, 2021年

バーチャル・ターミナル

youtu.be

おはよう。おやすみ。

アルス・アルマルが、鈴原るるが、葉山舞鈴が、兎咲ミミが、神成きゅぴが、真夜中に始めたゲーム配信を朝の6時か、7時くらいから見始める。私のポリリズミックな生活習慣が社会の規範的なリズムと重なる周期、つまり、珍しく早起きできた朝には、しばしばこうした状況が発生して、朝の窓辺で独特な感慨を覚えることになる。

同時間帯に朝枠と題された配信が行われていることもあるだろう。しかし、夜と朝とで始点を異にするこれらの配信は、視聴者にもたらす感覚もまるきり違う。伏見ガクの、戌亥とこの、登校や出社を後押ししつつ、家に残る者たちの存在も忘れていないような言葉たちが、間違いなくその日を活動するための燃料となるのに対して、夜から続いてきた配信の眠たげな声はどうだろう。まだ昨日にいる人たちが与えてくれるものは、新しい一日を始めるための新鮮な活力ではなくて、昨日の余韻のなかで朝を見送っていくような、やさしい消極性だった。その声が無い朝には許すことができなかった、アクセルを踏み込めないこと、それ自体を認められるような消極性である。遅れてもいいから歩いてみよう。

誰かにとっての終点であり、誰かにとっての始点である場所。これから眠る人たちと、いま起きた人たちの行き交う風景が、欠伸を噛み殺しながらゲームをするVTuberのもとに生まれる。澄み切っていない、濁りを含んだ空気が、呼吸のために必要な朝がある。