石少Q

けし粒のいのちでも私たち

ボイスロイドの言葉

昨日の夜はボイスロイドの声が聞きたい気分だったのでのらきゃっとの配信アーカイブを流しながら寝た。

youtu.be

ゲーム実況を画面を見ないで聞くっていう不誠実な受け手ではあるんだけど……紲星あかりの声をもって伝えられるのらきゃっとの言葉を目を瞑って聞いているとき、純粋に言葉の手触りだけを確かめられるような、不思議な感覚があった。熱を持った口語のバトンが、抑揚のない合成音声によって繋がれていくことの新鮮な違和感というか。のらきゃっとの配信はたびたび見ていたのに今までそういうことを思わなかったのは、たぶん画面上で動くのらきゃっとの身体が、その声の抑揚のなさを感じさせないほどいきいきとしていたからだと思う。

でもボイスロイドの、身体の動きを伴わない声だけを聞くこと自体はこれまでだって何度もあったはず。解説系動画のナレーションだったり、ポエトリーリーディング作品だったり。それなのに、ちょっとした感動が昨日になって初めて訪れたのは、やはりそれが紲星あかりの声である以前にのらきゃっとの言葉だったからだと思う。「パトカーの音」「現場に急行しちゃおうかな」「聞こえなくなっちゃった」。「査定が下がった」「私は真面目に」「私は真面目に仕事をしたつもりだったのに」。切り離されて平坦に話される言葉には、けれど確かに口語の余熱があった。熱くもなく冷たくもない、ちょうど体温みたいな温度の言葉だったから、その形体に純粋に触れることができたんじゃないか。「聞こえなくなっちゃった」という言葉を目を瞑って聞いているとき、「聞こえなくなっちゃった」という言葉そのものが浮かび上がってきた気がした。

普段は言葉を取り巻く声の、あらゆるノイズのほうを好きでいる自覚がある。トーンや、呼吸や、言い淀みや……「話し方のことが好きで内容はそのあとについてくる」みたいなツイートも少し前にしたと思う。でも、それらのノイズが完全に取り払われてしまったとしても、その後には、確かに選び取られた言葉が残るらしい。