石少Q

けし粒のいのちでも私たち

軋む次元の透過光

私は「二次元」にあこがれているのではなくて、ただ「遠いところ」に行きたいだけなのではないかと、たまに思う。なぜなら、実写のコンテンツにあまり触れなくなったいまでも、ときどき思い出し、聞き返しているラジオのアーカイブがある。映像はないが、パーソナリティのかれらは紛れもなく三次元の人間である。つまり、その「遠さ」は物理的、ないし地理的な距離の意味ではない。過去や未来までの時間的な距離。あるいは閉鎖性、不可能性、そして非現実性までの、(結局のところ)次元の距離の意味である。何年も前に、ある密室で、声だけを保存されたラジオは、いまの私を癒やすのにじゅうぶん「遠かった」。たとえ根ざしている次元が、私と同じであったとしても。

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ときどき思い出し、見返している動画がある。

DIYVTuber、東雲はつりが室外機を設置している動画。実写の背景とVTuberの身体が重なった写真や映像はもともと好きだった。ほんとうは仮想(V)よりも拡張(A)と呼ばれるべきなのだろうか。そのような名前の問題はひとまず措くとして、東雲はつりのこの動画の魅力のひとつは、実写が「背景」に留まっていない点にあるだろう。二次元の身体が、三次元の室外機に、同じ前景のなかで触れている。それは、それだけで驚くべきことだった。しかし、それだけではないようにも思う。

ともすると見て見ぬふりをしてしまいそうな違和感に、おそらく私は惹きつけられている。室外機を担ぎ上げたときの残像のような歪み。あるいは配管の取り付けに移ったときの壁面の欠損。間違いなく室外機の重さを全身で受け止め、配管の整理を淡々と行っている東雲はつりの、身動きのリアリティに対して、そのような動画上の非現実的な破綻は、私には、二次元と三次元の互換不可能性、つまり遠すぎる距離を、力業で縮めようとするさいに生じる「軋み」のようなものに思えた。

「二次元になりたい」という声が、思わず頭のなかで洩れることがある。VTuberという存在を、そのような願いの象徴のように見ることもできるかもしれない。しかし、そのあこがれの「二次元」は、必ず「遠いところ」にある。考えてみれば当然のことだが、この世界がそのまま「二次元」になっても意味がない。「メタバース」をめぐる言説に対する乗り切れなさは容易に思い出せる。また「二次元」がこの世界に肉薄しても、あこがれにはならない。リアリスティックな映像を有した最新のゲームよりも、数十年前のいびつな風景のなかを歩いていたいと、私は思う。

「だせえノンフィクションに疲れたな」「漏れもうフィクションになりたいな」と歌うひがしやしきの「まんがタイムきららになりたい」という率直な願いにも、やはり果てしない距離があった。かれはその距離に対して、音楽のなかで「ダウンコンバート」を行う。「自分で自分を変えていく/少しずつフィクションになっていく」。作品を残すということは、来るべき未来に対して、忘れられてゆく現在に、ひとつの標を打ち立てることだと思う。そして、その標に書きつけることは、夢でも、嘘でもいい。上手くいけば、その連なりが、誰かから見た自分を、そして自分の忘れた自分を、夢や、嘘の通りに有形化してくれる。ひがしやしきの音楽には、そのような意味で、目的と方法の結びついた説得力と、切実さがあった。

付言すれば、「自分で自分を変えていく」ことが作品を残す意味のひとつであるならば(思えばVTuberの音楽には、VTuberの存在をめぐる自己言及的な作品があまりにも多い)、「他人が自分を変えていく」ことが、二次創作の営みであるとも言える。掴みどころのないように感じていた新人VTuberの輪郭が、ファンアートの視線を経由して捉えられることは少なくない。二次創作タグのタイムラインに、誰かが打ち立てる匿名の標。その夢や、嘘の集積によって、VTuberもまた「少しずつフィクションになっていく」。

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あこがれの二次元は、触れた瞬間に消えてしまう。次元の「軋み」は、その不可能性を前提にして、尚も触れようとする営為のうちに現れる。ひがしやしきは、そうした次元の軋轢を音楽のうちに表現しながら、そこで歌っている憧憬に、じっさいに二次元のビジュアルで作品を残していくことで接近している。

東雲はつりの動画の乱れは、可視化され(てしまっ)た「軋み」、つまり二次元と三次元の「距離そのもの」の象徴として、私の目に映った。触れた瞬間に消えてしまうということは、言い換えれば、それは「遠いところ」である限り、あこがれであり続けるということである。だから私は、その「遠さ」を確かめるように、「距離」の映り込んだあの動画をときどき思い出し、見返していたのだと思う(「VTuberによる室外機の設置」というあの動画の本筋のおもしろさが大前提にあることは、言うまでもない)。

そして、そのようなフレームをVTuberという存在そのものに翳してみると、かれらの二面性に改めて気が付く。二次元であるかれらは、私にとっての古いラジオやゲームのような、あるいはまんがタイムきららのような、「遠いところ」であり、三次元に根ざしたかれらは、ときに悩み、間違えながら、触れえない二次元として振る舞い続ける、苛烈な「軋み」を抱えた存在である。配信者によって、視聴者によって、あるいはその瞬間によって、どちらが映るかは異なるだろう。おそらく、私が飽くことなく眺め続けているのは、揺れ動くかれらの、そうしたプリズム的分光の、不規則なきらめきである。ときに薄暗い自室のなかに溜まり、ときに遥か「遠いところ」まで、一直線に伸びてゆく。