石少Q

けし粒のいのちでも私たち

待機所考(雨とバス停)

数十分後、数時間後、数日後に始まる配信のことを、私たちは予め知っている。ときには、ほとんど無意識的にYouTubeを開く指先が、告知のツイートよりも先にその存在を見つけている、いつからか「待機所」と呼び習わされている場所。それを目にした瞬間から、私たちの生活には新たな引力圏が生まれる。この配信が始まるまでにシャワーを浴び終えよう。コンビニに行こう。明日のこの時間までに、作業を片付けてしまおう。「遅刻読み」というある種の信頼のかたちは、私たちの呼吸が、既に私たちだけのものではなくなっていることの証拠だ。

「待機所」という、馴染み深いようでいて、じつは日常さほど聞くことのない言葉を試しにツイート検索してみると、その多くがバーチャルYouTuberに関連していることが窺える。普通は取り立ててツイートするような言葉でもないので当然と言えば当然なのだが、主要な活動場所であるYouTubeの特有の仕様や、繰り返しの告知が慣習化している活動形態、ゆるやかな連帯のなかで語彙が伝播しやすい空気など、さまざま要因を被って、用語は少しずつ人々のあいだに定着していったと想像できる。そして、たんなるシステムの枠組みにすぎなかったページたちに、三次元的な空間の比喩が与えられたことは興味深い。しかし、気づけばそのようにして言葉だけに親しんでいる「待機所」とは、私たちにとって、いったいどのような場所だっただろうか。

いつか卯月コウは、「卯月コウを待っています」という純粋な文言の抗しがたい魅力から、チャンネル名に英字を併記できないと語った。そう、確かに私たちにとって、VTuberの通常配信を待つときの感覚は「待ち合わせ」に他ならない。たとえ二桁以上の待機人数が表示されていたとしても、多くの人々のモノローグがチャット欄に溢れていたとしても、開演前のフロアなどとはまったく異なる素朴な時間が、液晶の前には流れている。そのとき待機所は、教室であり、昇降口であり、駅前であり、街角であり、交差点であり、玄関先だっただろう。コウの場合であれば、彼と私(たち)はそこで待ち合わせをしたあと、教室でたむろしたり、つくば山の見える畦道で立ち話をしたり、さまざまなゲームの世界にまで飛び移ったりするのである(ゲームの内容やそれに対する没入の度合いによっては、コントローラーを握って画面に向かう姿を、同じ部屋から眺めているようなイメージになることもあるだろう)。

あるいは、配信開始時刻を数年後に設定して便宜的に作り出される「フリーチャット」という常設の交流スペースに、「とりあえずここで待ち合わせ」という文言を残した紫水キキは、待機所のそのような性質に自覚的だったのかもしれない*1。この「とりあえず」の感覚は、フリーチャットという場所を考える上でも重要だ。フリーチャットは、通常の待機所のようなアポイントメントの効力を事実上持っていない、予感の場所である。あそこに行けばあの人がいるかもしれない、もしくは、あそこに行けばあの人を感じられる、というような、片想い的な運動。来なくてもいいから待つ、その代わり、私はいつここを去ってもいい、厳密な契約のない「とりあえず」の待ち合わせ。キキさまがそこに「聖域-サンクチュアリ-」というフレーズを冠したのも、たんなるいたずら心ではなかったように思える。

誰かを待つ時間には、約束を結んだ双方向的なものと、ただ一方通行的なものとの二種類がある。VTuberの配信における待機所は前者に属し、それがフリーチャットとして射程を伸ばすと、曖昧な約束・予感という両者の中間領域に移るのだった。すると後者の一方通行的な待ち方とは、場所的な制約を持たないVTuberの視聴においては、待機所も、フリーチャットもないなかで、ただ漠然とその人のことを考える時間だろうか。だとしたらそのとき、私たちはどこにいるのだろうか。むろん、現実的には家や、学校や、職場にいるのだが、ふと、その人のことを思い出して、いまが紛れもない「待機所のない待ち時間」であることに気づいたとき、私たちの意識は、瞬間的に仮想の場所まで飛ばされていやしないだろうか。内面化された待機所のイメージが、もはや待機所を必要としなくなる。これは「待機所」が、三次元的な比喩であるがゆえの現象だろう。いつか約束をして待ち合わせた場所に、今度は一人で迷い込むように……そういえば久しく姿を見ていなかった雨森小夜のことを、私がふいに思い出すとき、いつもバス停の幻を垣間見ているように感じるのも、きっとそのためだ。

このきわめて個人的な幻視を、少し観察してみたい。そこには制服とバス停という組み合わせのステレオタイプも関わっているのだろうが、もっと直接的に、2020年の「帰れない百物語」で、雨森が語っていた怪談のイメージが、強く影響しているように感じる。

【#帰れない百物語】100個怖い話するまで帰れない2020【月ノ美兎/にじさんじ】 - YouTube

ひとりでに知らない音声を流し始める無線イヤホンの奇妙を描いた『混線』という怪談は、百物語の配信開始から八時間が経とうかという頃に紹介された。夜が明けそうな時間帯の眠気のなかで、雨森の澄んだ声と、巧妙な動画編集と、文学少女らしい静的な物語作りが、そこだけ明らかに異質な世界だったのをよく覚えている。そして、その物語の舞台となっていたのが、田舎町の寂れたバス停だった。

無線イヤホンと田舎のバス停という、物語にしては微妙に現実的な組み合わせが、バーチャル世界の女子高生の、クラシカルな佇まいの異様さに重なったのかもしれない。あるいは、「混線」や「神隠し」といった作中の要素が、やたらと電波が悪かったり、ふいに音沙汰がなくなったりする少女の、不安定で儚げな印象と紐付いたのかもしれない。作品と作者を混同した鑑賞、と言われてしまえばそれまでなのだが、私が抱えている雨森小夜のバス停のイメージに、この怪談が影響していることは、とりあえず事実のようである。作者自身が物語性のなかにあるバーチャルの、さらにその奥の物語に向き合う態度の難しさにもここで気づくことになるが、その話はまたべつの機会に回す。バス停の幻の由来は、他にもあるように思うのだ。

私たちは、誰かに「待っている」ことを伝えるとき、その裏面にある「待たせている」ことの焦燥を意識する。愛ゆえに待ち、同時にそれが、相手を縛りつけることを恐れもする。そうしたアンビバレントな感覚のために、バス停のイメージは存在していたのかもしれない。会っている時間よりも待っている時間のほうが長いことを隠蔽するように、待つ対象をすり替える。これは相手を思いやる行動ではなく、自分が安心するための密かな認知の転換だ。私はただ、バスを待っているだけである。そしてその場所で、雨森小夜と「遭遇」できたならいい。イラスト以外の二次創作のために用意された「雨森と雨宿り」という印象的なハッシュタグのフレーズは、その担っている役割も含めて、ひとつの待ち方のイメージを示してくれる。雨宿りを約束することはできない。

二重化した用件をその時々で交換し、自分に対して説明をつける。待機所的な待ち合わせではなく、フリーチャット的な確信めいた予感もない、べつのなにかを待ちながら、遭遇への微かな期待をときどき思い出すような、まわりくどい一方通行の待ち方。なぜ雨森小夜を、そしてあらゆるVTuberを、そのようにして待っているのか。待つことすら叶わない状況に、VTuberの視聴の上でもしばしば立ってきた私(たち)にとって、待てるということは既に幸福の一形態である。だからきっと、できるだけ長く待つために、バスを待っている。ときおり手紙のようなツイートを寄越してくれる雨森を、待ち、忘れ、待ち、忘れながら暮らしている私のなかで、バス停は、彼女のあらゆる印象を引き受けた舞台でありながら、自分の待つ方法そのものを象徴する場所だった。

私たちの生活の直線をゆるやかにカーブさせる転轍のようなそのページが「待機所」と呼ばれるのであれば、きっとVTuberの数だけ飾られた空間のイメージが生まれる。そして、その空間を私たちが記憶したのなら、待機所のない待ち時間も、思い出したときには、そこに行ける。うれしくて寂しい時間を過ごす場所ですら密室ではないバーチャルだ。無意味な時間が待ち時間になるのなら、それも結構なことだろう。私はバスを待ちながら、雨森小夜を待っている。ふいに現れることを期待したり、その期待を忘れたりしながら、時刻表や、道路の左右に忙しなく視線を移す。だから途端に結ばれた約束の、その時刻よりも遥か早くに現れてきて、助けを乞われたとしても、狼狽えることしかできないのだ。

*1:もともと紫水キキは、たんなる通常配信のひとつとして「とりあえずここで待ち合わせ」の枠を作っていた。しかしそれは急遽中止になり、キキさまはそこから一ヶ月弱の活動休止を余儀なくされる。そのあいだに、残された「待ち合わせ」の待機所の開始時刻が遥か先まで延ばされたものが、フリーチャットとして変質したのである。なにげないタイトル付けだったのかもしれないが、それが不安のなかで活動再開を待つファンにとっての、本当の待ち合わせ場所になり、キキさまはその言葉をいまも変えずに残している。そしてどうやら休止期間のあいだも、キキさまはしばしばこの場所に、コメントとして姿を現していたようである。