石少Q

けし粒のいのちでも私たち

生まれつかないお嬢様

youtu.be

ゲリラ的に告知されたにじさんじ初のソロデビューは当然のように世間の注目を浴びて、ネタ説、企画説、ドッキリ説など、さまざまな憶測が飛び交った。そのなかで私は、壱百満天原サロメという縁起のよさそうな名前と、それによく似合う美しくてかわいらしい身体が、一過性のものとして使い果たされてほしくないと、密やかに願っていた。

そんなことを思い出したり、忘れたりしているうちに数日が過ぎて、いつの間にか初配信の時間がやってくる。がっくりする準備はできていたし、その上で平静を装うつもりでいた。おそらく多くの人がそんなふうに、液晶に対して斜めに構えていたのだろう思う。憂鬱な『エリーゼのために』とともにサロメさまと田角社長が回転する待機画面で心が疑念のほうに傾いたかと思えば、そんな不安は、数度、喉を鳴らしたあと高らかに張り上げられた第一声と、それに呼応した『フィガロの結婚』の長調によって吹き飛ばされる。

配信の順序に則って出来事を書き出したり、感想を述べたり、なにかを考えたりすることは、ここではしない。ただひとつ言えることは、新人の初配信に対して、ずっと祭りを遠巻きに眺めるような気分が拭えなかった私にとって、壱百満天原サロメの初配信は、初めて声を聞くこと、初めて動く姿を見ることの純粋なよろこびのなかで、期待と、不安と、興奮とが混じりあって直接的に届いてくる、ほとんど初めての体験だったということだ。30分という短い時間のなかで、明らかに少しずつ、ひとりの人に魅了されていく。嘘か本当か、そこではどうでもよかった。

私たちが訝しむことの正当性は、例えば公式の告知ツイートに持たされていた妙な含みによってわずかに担保されていたはずだが、そのような疑念の余地は、配信上のサロメさまの言葉や行為によってひとつひとつ、丁寧に上書きされていく。プロフィールのこと、口調のこと、髪質のこと、住民票、履歴書、マイナンバーカード、そして胃カメラ(……?)

この胃カメラについてメモを書き添えておく。私たちのよく知るにじさんじの先輩ライバーにはひとり、詳細を明かさない三次元的な身体をタイツとウィッグで覆い隠し、素肌や髪をまったく見せなければ、たとえその挙動や仕草があまりに見覚えのあるものであったとしても、VTuberとしての性質は保証され続けるという、きわめて批評性の高いふざけた行為をしている人物がいたはずだったが、すると胃カメラはどうだろうか。私たちが、その美しく平面的な身体から想像もつかない、グロテスクな三次元の写真、身体、器官を目にして、それが紛れもなく「本人」のものだったとき、VTuberの存在、壱百満天原サロメの存在はしかし……。

話を戻す(戻る場所なんてあっただろうか)。サロメさまがしきりに繰り返す「いろいろなものすべてが生まれつきですわ」という言葉が頭から離れない。公式説明文にまで「髪や口調は生まれつき」と記されていて、活動のひとつの軸になっていることは確かなようだ。生まれつき……「生まれつくこと」自体が選ばれているVTuberにとって、この残酷な言葉の意味はより複雑で、多層的だ。配信の後半、それまでとは少しだけ異なるトーンで語られた「お嬢様になりたい理由」「VTuberを始める理由」には、その意味を考えるための手助けとなるような言葉が聞こえていた気がした。長くなるが引用したい。適度に補足や省略を挟むので、細かいニュアンスは配信本編を確認するのがいいと思う(25:30~)。

わたくし先ほども言いましたが、中学高校ひきこもりでして、高校はちょっと行ったんですけれども通信制の高校とかで、大学もけっきょく失敗(中退)いたしまして……

わたくし生まれたときから、なんと言うのでしょう……なんと言えばよろしいのかしら、わたくしが……この世界にいるのは、なんだかおかしい気がずっとしていたんですのよね。なんだかこの世界にいるのが間違っているような……。この気持ち、わかりませんか?

この「ですわ口調」というのも本当に小さいときから悩んでおりまして、どうしても、他の方たちといろんなものが合わなかったりしたんですわ。「どうしてわたくしはこのような生まれでこのような見た目で」ということをずっと悩んでまいりまして、わたくしはどうしてこの世界に生きているのだろう、世界が間違っているのではないかと思っていたのですわ。

ですけれども、まあいろいろありまして、大体20歳を超えたくらいからですわね、「だからといってどうしようもないですわ!」という思考に徐々になってきたのですわ! 本当にどうしようもないですわよね、生まれたカードがわたくしコレですから!

サロメさまの明るさを保った声によって配信上ではポップに響いていたが、書き出してみればおそろしいほど繊細な言葉たちだ。あらゆる「お嬢様っぽい」性質を持つなかで、唯一「本当のお嬢様」という性質だけが「生まれついてこなかった」一般女性の齟齬と、そこから世界に対して感じる違和感、疎外感、そして自分に対する異物感、孤独感……「ですわ」と一度も口にしたことのない人間にだって理解できる、普遍性をもった問題。

私たちは壱百満天原サロメのことを、まだ何も知らない。明日にはいなくなっているかもしれない。あるいはすべて嘘なのかもしれない。それでも重要なのは、サロメさまが自嘲気味に「変」だと言った「ですわ口調」は、YouTubeライブ上では、私たちの目の前では、「頑張れば30分から1時間であれば可能」な「普通の喋り方」の暴力的な退屈さを乗り越えて、バーチャルYouTuberとして、ありのまま魅力的に輝くということだ。紫色の縦ロールや、サソリの紋章についても同じである。中学、高校、大学と自らを悩ませ続けてきた「生まれたカード」を捨てたり、書き換えたりするのではなくて、それを効果が発揮できる場所に叩きつけるということ。「変」なことを「普通」に転覆させたとき、ふたたび「変」が裏面から滲み出してしまう二元論のジレンマから抜け出して、「変」なことを「変」なままに認めるということ。

嘘か本当か、そこではどうでもよかった。ある者がそれを「誇張」として、あるいは「虚構」として後ろ指を指したとしても、私たちがサロメさまの言葉に耳を傾けて、それを信じようとした30分とそれ以降の時間があるのなら、私たちの呪わしくてどうしようもない「生まれつき」は、きっと一緒に祝福される。サロメさまが、YouTubeの「とても明るい方」の映像に励まされて、あこがれて、VTuberを志すようになったのと同じように。

存在や言葉が、その真偽を越えて三次元までをも彩るとはなんとVTuber的だろう。それに加えて、今後の方針として語られた、楽しく「過ごす」ことへの意識もまた、VTuber的で、もっと言えばにじさんじ的だ。バイオハザードまみれの予定表を見せたあと、落ち着いたら「生活のため」に週二、三は休みを取ることを断っておくバランス感覚も含めて……正直なところまだ、どこまで存在を信じていいのか不安な部分はある。けれどもう、ここまで書けたのなら、書いてしまったのなら、そんなことはどうだっていいだろう。私がこの初配信に感動した事実は、どうしたって変えようがない。

「生まれつき」を諦めながら愛するために、いろいろな方法で飾りつけて「お嬢様」になっていくサロメさまの姿を、できることなら長く見ていたいと、いまは思う。

「ですわ口調」、まあ「変」ですが……? みなさまお気づきかもしれませんがミスも多いですし、ダメなところもたくさんあるのですけれども、そんなわたくしでも楽しく過ごしていれば、その姿を見て誰かが楽しいと思っていただけるかしら、そして、百万点の笑顔を持っていただけるかしらと思いまして、そのような活動方針で、させていただきたいと思っておりますわ!