石少Q

けし粒のいのちでも私たち

日記帳が燃やされるとき

委員長の言う死ぬのが怖いという感覚がいまいちわからなかった。いや、怖いことは怖いけど、普通に嫌、といった程度で、委員長の恐れ方はそんな比じゃないように思えた。でもいつだったか、委員長がそれを「意識を失うのが怖い」と言い換えたとき、ひとつ繋がるものがあった。それは私のなかにずっとあった、過去を忘れるのを恐れる感覚とよく似ているんじゃないかと思った。

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」と言って日記を書きつけていたのは少女終末旅行のチトであったが、そのチトに対して人工知能は「忘却のない永遠がどのようなものかわかりますか」と問いかける。そのクエスチョンを抱えたチトはやがて、極寒の地で暖を取るために日記帳を燃やすことになる。「たぶん私は忘れるのが怖かった」「だけど大丈夫…毎日ちゃんと目は覚めるし……まだ生きてる」と言って。

「人は忘れるから生きていける」という言葉に「でやんす」をつければパワポケ8の名言になるし、そうしなくても聞き覚えのあるフレーズであることに変わりはない。この類の言葉が人口に膾炙している事実は、忘却が普遍的な恐怖であることを明らかにする。忘却は死の換言であり、その前触れでもある。

永遠の命のむなしさに気づきながらも死ぬのが怖いと言って、永遠の記憶の狂気に気づきながらも忘却に抗おうとする。その相反を私は認めてしまう。やがてその声は聞こえなくなって、日記帳は燃やされてしまうのだとしても。