石少Q

けし粒のいのちでも私たち

始発を待つような

youtu.be

バーチャルYouTuberに感化されてなにか行動を起こすことの、特有の面白みはどこにあるのか。あのファッションモデルが着ていた服に袖を通して、あのアイドルの仕草を真似て、あのYouTuberのモーニングルーティンをなぞってみるのとはなにが違うのか。はたまた、『けいおん!』に感化されて楽器を買って、『WORKING!!』にあこがれてファミレスに履歴書を出して、『デュラララ!!』みたいな気分でサウンドトラックを聴きながら池袋を闊歩するのとはなにが違うのか。

藤原基央にあこがれてレスポールを抱えたときのよろこびと、平沢唯にあこがれてレスポールを抱えたときのよろこびが、それぞれ基づいている次元の違い。ごく簡単な非現実への誘い。まずひとつ、確かに言えることは、二次元のものに心酔して、それを真似るように行動してみたとき、私たちの気分は「二次元的に光る」ということだ。その行動をしているとき、それまで不可侵だった二次元的な光が、私たち自身の内側から湧き出てくる。

そして、そういうことがあるとして、VTuberに感化されることについて話題を戻してみれば、その特有の面白みは、アニメや漫画には描かれてこなかった、あるいは描かれていたとしても、取るに足らないものとして見過ごしてしまっていた些細な要素たちが、三次元と二次元の隙間から、明快かつ的確に、私たちのもとへと投げかけられている部分にあるだろう。それは例えば、都会でまともな宿も取らずに夜を越すときに、月ノ美兎のことを思い出さずにはいられないように。

夜遅くまで長引いた予定と、翌日の朝早い予定とのあいだ、私が池袋のネットカフェで一晩を過ごすと決めたとき、もちろん脳裏には月ノ美兎の姿があったし、私の心は(たったそれだけのことで)二次元的に光っていた。『月ノさんのノート』に書き出されていた、漠然とした寄る辺なさについての吐露を具体的に思い出すまでもなく。

……まず、この話をするにあたって、今まで住んでいた家の変遷を記そうとした。けれどなかなか適切な記し方が見当たらなかった。なぜなら、少し前のわたくしは常にリュックの中にある程度の宿泊グッズが入っていたぐらい、毎日の寝床が定まっていなかったからだ。*1

とは言っても、パック料金で2000円を超すような私の一夜はまったくの贅沢で、いつかの雑談配信で聞いたような、24時間営業のサイゼリヤで一晩を過ごした話と比べてみても、まだまだかわいいものですね……と思いながら、せっかくだからと持ってきた漫画のことは忘れて、家にいるのと同じようにiPadYouTubeを開いてみると、噂の委員長がちょうど歌枠をやっている。「委員長いまバカ面白い歌枠やってるよ」と飛んできた鳩に対して「バカ面白い歌枠ってなんだよ」とつっこみを入れたのはリオン様だったか、誰だったか……。

2022年と2013年をタイムスリップで往還しながら新旧のボカロ曲を交互に歌っていく配信もまた「バカ面白い歌枠」には違いなくて、漫画をぺらぺらめくりつつ「ちってーん」(トリノコシティ)や「ようず」(1925)の懐かしさに想いを馳せていると、終わりに差し掛かって、少しだけ改まった調子の言葉が聞こえてくる。「わたくしはね、ちょっとキツい感じの時期にこの曲をひたすら聴いて……なんかこの曲を聴いてるとね、落ち着いたんですよね」。

イントロが流れ始めて、それが『夕暮れ先生』だと気づくまでにわずかながら時間を要したのは、私自身もかつてその曲に救われていたことを、もはや忘れかけていたからだった。2012年のことなら無理もないだろう。その頃はラスサビの「あの日、僕を殴りやがった アイツに復讐するために 少しのギターと歌声を」という歌詞に勇気づけられていたような覚えがあるが、いま改めて聴くと、当時ではきっと理解できなかったような箇所に耳が傾く。

終電逃しちゃって 始発を待つような そんな時間、好きじゃ駄目かな ——石風呂『夕暮れ先生』

歌枠は終わって、漫画にも飽きて、眠いのにまわりの物音やいびきが気になって眠れずに、思ったよりも神経質な自分に気がつく。これだったらファミレスのほうがましだったかもしれないと思いながら、無料のモーニングのトーストだけは頂いて予定より早く雑居ビルを後にすると、案の定、想像よりも明るい景色に目が痛む。世界の終わりを探すような感傷は確かに抱えつつ、しかし「朝方 僕はひとりぼっち」のような気がしなかったのは、イヤホンから聞こえてくる懐かしい音楽と、VTuberの声があったからだ。

*1:月ノ美兎「あなたの家」 p.25, 『月ノさんのノート』, KADOKAWA, 2021年