石少Q

けし粒のいのちでも私たち

バーチャル・ターミナル

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おはよう。おやすみ。

アルス・アルマルが、鈴原るるが、葉山舞鈴が、兎咲ミミが、神成きゅぴが、真夜中に始めたゲーム配信を朝の6時か、7時くらいから見始める。私のポリリズミックな生活習慣が社会の規範的なリズムと重なる周期、つまり、珍しく早起きできた朝には、しばしばこうした状況が発生して、朝の窓辺で独特な感慨を覚えることになる。

同時間帯に朝枠と題された配信が行われていることもあるだろう。しかし、夜と朝とで始点を異にするこれらの配信は、視聴者にもたらす感覚もまるきり違う。伏見ガクの、戌亥とこの、登校や出社を後押ししつつ、家に残る者たちの存在も忘れていないような言葉たちが、間違いなくその日を活動するための燃料となるのに対して、夜から続いてきた配信の眠たげな声はどうだろう。まだ昨日にいる人たちが与えてくれるものは、新しい一日を始めるための新鮮な活力ではなくて、昨日の余韻のなかで朝を見送っていくような、やさしい消極性だった。その声が無い朝には許すことができなかった、アクセルを踏み込めないこと、それ自体を認められるような消極性である。遅れてもいいから歩いてみよう。

誰かにとっての終点であり、誰かにとっての始点である場所。これから眠る人たちと、いま起きた人たちの行き交う風景が、欠伸を噛み殺しながらゲームをするVTuberのもとに生まれる。澄み切っていない、濁りを含んだ空気が、呼吸のために必要な朝がある。