石少Q

けし粒のいのちでも私たち

輝いて・手を振って

NIJIROCK NEXT BEAT、中高生の頃の自分が好きで聴いていた音楽たちがVTuberたちの声によって新しく響いていて、ロックってまだ全然おれにとって思い出とかじゃないのかもって恥ずかしめなことを素直に思えた。

全編良かったのは前提としつつ、個人的なハイライトについて忘れないうちに書いておく。

まず緑仙の東京……好きなバンドの好きな曲だからって歌い始めた瞬間から嬉しくなってたんだけど、曲が進むうちに少しずつ、緑仙がこの曲を歌うことの必然性みたいなものに気づいていった。おれは緑仙が東京の地名、新宿とか高円寺とか池袋とかの名前を出しながら雑談を進めていくのがすごく好きだから、そんな緑仙が東京を歌ってくれたのが嬉しかったんだった。あとラスサビの(あなたの帰りを待つ)を歌わずに、しっかりコーラスで再現してくれたのも良かった。あそこはやっぱりあれがいい。

そして絶対的な関係。赤い公園って口にするだけで少し感傷的な気分になってしまうことは許されたい。今年の3月に「Vにライブで歌ってほしいけどフルで1:40しかないからおそらく叶わない」って言いながらリンクをツイートしていた。念願叶ってよかったね。そうなるとは思っていたけどこの曲、Vが歌うとクールさと裏腹なこわさが際立つ。「中の人が企んでることは/目論んでることは/私たちだけの秘密」……ちゃんと聴いたのは久しぶりだったけどやっぱり驚異的にポップで、この曲が永遠の身体によってちゃんと歌われ、継がれていってるってそういう意味でもぐっときた。

「おやすみ泣き声、さよなら歌姫」はクリープハイプを好きになったきっかけの曲だった。ちょっと前に仙河緑くんのアカウントを眺めていたとき「スマブラギターエロゲ漫画音楽っていうテンプレみたいな大学生の自分、結構気に入ってるんだ」ってツイートを読んで、あれもう大学生になったんだっけって驚いてて、だから「僕も随分歳をとったよ こんなことで感傷的になってさ」って歌っていたのが刺さった。この曲を聞くとほとんど同時に、あの大東駿介がオタクっぽい青年を演じてるMVを思い出してしまうわけだけど、それもあってかおれにとってのこの曲にはモラトリアムの気だるい空気が漂っていて、それが今の緑仙にすごくよく似合っているように思った。

「横浜の地に、一人佇む、女の子がいましてね」って語りの時点でガッツポーズしちゃったよ。嘘っぽく笑う少女が歌う透明少女! 向井秀徳が描く少女の像ってなんかすごく雨森に近いような気がする。札幌ですら網走とはかなり遠いんだけど……。澄んだ声で歌われるとメロディの良さが際立つって、似たようなことはミッシェルの連打でも思った。こうなってくるとやっぱり世界の終わりもいつか聴きたいと思ってしまうな。

そして「TEENAGER」……「若者のすべて」とか「銀河」ではないあたりになにか強い意思があるように直感したけど、それについては聴いているうちすぐに想像できた。「ティーンネイジャー 何年先だっていつでも追いかけてたいのです」って永遠の17歳が歌う? 雨森小夜って自然と永遠に17歳なんじゃなくて、そうあろうとして永遠に17歳なのかもしれんね。「いつも物足りない」し、「とにかく君に触れられない」のは私たちだけではないのかも。

ピエロ縛り歌枠でアカペラで歌われていたサーカスナイトが、生バンドの演奏と共にアリーナで歌いなおされるってそれだけで嬉しかった。やっぱり「僕は冴えないピエロで」って言ってほしいし……でもなにより息を飲んだのは最後の、こちらに背中を向けながら綱渡りの仕草で少しずつ透明になっていく演出だった。「目の前で 魔法が解けてゆく」……バーチャルって魔法を解くことすらできてしまう。

ちょうど本編が終わったくらいのタイミングで家を出る用事の時間になってしまって、アンコールは外からiPhoneで観ることになった。でも結果的には、夜にバスを待ちながら「ジェットにんぢん」を聴くっていう謎にいい感じのシチュエーションが生まれたから良かったのかも。あの曲の掴みどころない、それでいてどこかシリアスな雰囲気はSEEDs1期のふたりにすごくよく合っていた。

そしてバスに乗って「深夜高速」を聴くという……「10代はいつか終わる 生きていればすぐ終わる」ってその時期に天啓を受けた道化師が歌うことの切実さよ。ピエロの昔の話が好きだからこの2番Aメロのパートが充てがわれていたのは嬉しかった。「見苦しいほどひとりぼっち」って歌に「まあ孤独じゃないっすよ」ってあの声が聞こえてくる。後半のがなりには、自分の歌声のプレーンさに嘆きに近い語りをしている人とは思えないくらい独特な色があってよかった。歪みの粒が荒い感じで、イベントにかけて言うならBD-2よりRATっぽいというか。

「ぶっ生き返す」もそれで終わりだとして満足いくくらいに凄まじかったのに……BABY BABYのイントロが流れた瞬間、思わず電車で声が出そうになった。VTuberがカバーすることによって既存の曲の聴こえ方が変わるのが好きっていう話は度々しているけど、まさかこんな絶対的な曲さえもそうだとは。峯田が歌う「永遠に生きられるだろうか」と、力一や緑仙が歌う「永遠に生きられるだろうか」は言葉の力点というか、指向性がまったく違うように思える。あとは、「何もかもが輝いて 手を振って」って、文字通りに輝くことでしか現れられない光たちが、手を振りながらそれを歌うことの乱反射した美しさとかもあって……。

なんというかこのイベントを観ていたら、EDMと四つ打ちロック全盛の時代にありながら90s~00s邦楽ロックの幻を追い続けていた高校生の頃の私がちょっと報われたように思えた。お陰でいま、好きな人たちが何を考えているのかが少しだけわかる……ような気持ちになれている。

ボイスロイドの言葉

昨日の夜はボイスロイドの声が聞きたい気分だったのでのらきゃっとの配信アーカイブを流しながら寝た。

youtu.be

ゲーム実況を画面を見ないで聞くっていう不誠実な受け手ではあるんだけど……紲星あかりの声をもって伝えられるのらきゃっとの言葉を目を瞑って聞いているとき、純粋に言葉の手触りだけを確かめられるような、不思議な感覚があった。熱を持った口語のバトンが、抑揚のない合成音声によって繋がれていくことの新鮮な違和感というか。のらきゃっとの配信はたびたび見ていたのに今までそういうことを思わなかったのは、たぶん画面上で動くのらきゃっとの身体が、その声の抑揚のなさを感じさせないほどいきいきとしていたからだと思う。

でもボイスロイドの、身体の動きを伴わない声だけを聞くこと自体はこれまでだって何度もあったはず。解説系動画のナレーションだったり、ポエトリーリーディング作品だったり。それなのに、ちょっとした感動が昨日になって初めて訪れたのは、やはりそれが紲星あかりの声である以前にのらきゃっとの言葉だったからだと思う。「パトカーの音」「現場に急行しちゃおうかな」「聞こえなくなっちゃった」。「査定が下がった」「私は真面目に」「私は真面目に仕事をしたつもりだったのに」。切り離されて平坦に話される言葉には、けれど確かに口語の余熱があった。熱くもなく冷たくもない、ちょうど体温みたいな温度の言葉だったから、その形体に純粋に触れることができたんじゃないか。「聞こえなくなっちゃった」という言葉を目を瞑って聞いているとき、「聞こえなくなっちゃった」という言葉そのものが浮かび上がってきた気がした。

普段は言葉を取り巻く声の、あらゆるノイズのほうを好きでいる自覚がある。トーンや、呼吸や、言い淀みや……「話し方のことが好きで内容はそのあとについてくる」みたいなツイートも少し前にしたと思う。でも、それらのノイズが完全に取り払われてしまったとしても、その後には、確かに選び取られた言葉が残るらしい。

ゲームをする人

配信をぼんやり眺めていたら高校のときに好きだった人のことを思い出した。別に声が似ていたり、喋り方が似ていたりしたわけではなくて……「あの子戦国無双めちゃくちゃやり込んでるらしい」って変な噂を聞いたのがその人のことを気になりだしたきっかけだったから、配信者の、今ひとりでゲームをしているっていう状況のほうに目を向けたときに、ふと頭をよぎった。結局その噂が本当だったのかは最後まで知れなかったんだけど……。

ゲーマーへのフェチみたいなものがあるように感じる。ゲームやってる女の子すき、にはとどまらない、なにか憧れ?のようなものが。というか、録画した東京エンカウントは延々とループで流していたんだし、ハイスコアガールから入ってピコピコ少年まで熱心に読んでいたんだから、性別とかは関係なさそう。アニメたくさん観ている人、にも憧れはするけど、それはおおむね知識に対してで、視聴行為そのものに惹かれてはいない気がする。画面を見つめながらコントローラーを操作している、その空間自体が強い魅力を持っているように感じる。

受動と能動の両方が必要とされるゲームプレイを、ひとつの完成されたサイクル、閉じた円環運動とみなすことはできそうだ。プログラムと行為を絶えず交換しつづける……ならその、画面と身体とで完結した世界に没頭する人に惹きつけられるのも、なるほど理解できる。なにかに夢中になっている人は美しい、と言ってしまえば簡単だけど、夢中の対象が仮想のもので、しかもそこに働きかけをしている人の美しさは、その定型文に収まりきらない。

日記帳が燃やされるとき

委員長の言う死ぬのが怖いという感覚がいまいちわからなかった。いや、怖いことは怖いけど、普通に嫌、といった程度で、委員長の恐れ方はそんな比じゃないように思えた。でもいつだったか、委員長がそれを「意識を失うのが怖い」と言い換えたとき、ひとつ繋がるものがあった。それは私のなかにずっとあった、過去を忘れるのを恐れる感覚とよく似ているんじゃないかと思った。

「記憶は薄れるから、記録しておくんだよ」と言って日記を書きつけていたのは少女終末旅行のチトであったが、そのチトに対して人工知能は「忘却のない永遠がどのようなものかわかりますか」と問いかける。そのクエスチョンを抱えたチトはやがて、極寒の地で暖を取るために日記帳を燃やすことになる。「たぶん私は忘れるのが怖かった」「だけど大丈夫…毎日ちゃんと目は覚めるし……まだ生きてる」と言って。

「人は忘れるから生きていける」という言葉に「でやんす」をつければパワポケ8の名言になるし、そうしなくても聞き覚えのあるフレーズであることに変わりはない。この類の言葉が人口に膾炙している事実は、忘却が普遍的な恐怖であることを明らかにする。忘却は死の換言であり、その前触れでもある。

永遠の命のむなしさに気づきながらも死ぬのが怖いと言って、永遠の記憶の狂気に気づきながらも忘却に抗おうとする。その相反を私は認めてしまう。やがてその声は聞こえなくなって、日記帳は燃やされてしまうのだとしても。

視るVTuber

 

ぶいすぽっ!所属のVTuber、花芽すみれさんが今日の夕方におこなっていた配信です。新居のPCがネットに繋がっていないため、スマホをフリーWi-Fiに繋げての配信らしい。当然画面は真っ暗で、本人の姿は写っていません。お茶漬けを食べながら喋る音、猫をあやす音、PCとモニターを繋げるためにガタガタと苦闘する音など、音だけがずっと配信されている。マイクもスマホ付属のもののようなので、序盤は空調の音がばりばりに入っていたりする。

そのような整っているとは言えない環境からおこなわれたこの配信が私にはすごく良いように思えて、それには電話のような質感がうれしいという気持ちの悪いオタク精神だったり、ラフな生活音がうれしいという悪趣味なピーピング精神に起因するものも無いではありませんが、もっと別のところに、刺さった理由が多分にある気がします。

 

ときおりVTuberはこの配信のように画面から姿を消します。それは例えばお料理配信だったり、ツイキャス配信、地上波ラジオへの出演、機材のトラブルや、あるいは誰かの枠に通話でゲリラ的に参加したときなども、ビジュアル無しで声のみが発信されますね。

最近ではあまり見なくなりましたが、以前はこのような状況になるとしばしば「VTuberの意味ないじゃん」みたいなコメントが向けられていました。絵が動いて喋るのがVTuberなんだから、絵が動かなきゃリアルの人間と変わんないじゃん、という理屈でしょうか。

私はVTuberを定義するもののひとつに「二次元の人間(あるいはその他の生物)であるという自認」があると思っていて、それはVTuberに限らずバーチャル○○は大体そうなんじゃないかとも思っています。「キズナアイです」と言っている、キズナアイの自覚を持った声と体があって、その声が同様に地上波ラジオで「キズナアイです」と言ったらそれはキズナアイなので、そこに二次元の体が動いているかどうかはあんまり関係ない気がします。

対照項として歌い手や実況者はアイコンこそ二次元絵であることが多いものの、二次元に住まう人間という自認は持っていない人が大半で、多くはリアルに軸足が置かれていると思います。その辺が領域を隔てるひとつの目安になりそうです。

 

先程の花芽すみれの配信は本当にラフな状態でおこなわれているのですが、そんな中でも「すみれは〜」「すみれが〜」と話し続けていて、ああ、花芽すみれが生活しているな、と思います。このときに想起されるイメージ、猫をあやしている花芽すみれや、PCにケーブルを繋ごうと苦闘する花芽すみれのイメージのことを考えると、この配信の良さもわかってきます。

現在の技術では、VTuberの表情や所作に「こぼされているもの」が多くあるのは共通の認識としてあると思います。極端な話をすれば、泣いても涙が出ない体がほとんどであるということです。

ではVTuberが画面から姿を消したときに泣いている声が聞こえたらどうでしょうか。そのとき脳裏に浮かぶのは「泣いているその、二次元の人の姿」で、これが意外と、他のどのコンテンツにも無い特異な点だと思います。声優さんがラジオで泣いるときに想起されるのはその声優さんが泣いている姿ですからね。

最初にキャラクターデザインが示される小説を読んでいるときや、ドラマCDを聴いているときに働く想像力には近いものがありそうですが、それらはすべてフィクションで、ノンフィクションの泣き声が二次元のビジュアルで想起されるものは他にあまり無いような気がします。

姿を画面に残したまま離席している状態でもある程度のビジュアライズは果たせるものですが、やっぱり固まってるその人の顔に目が行きますからね。VTuberが居ないときにだけ視えるものがある、という話でした。

 

そういえば私がVTuberにいよいよハマるきっかけになった「かえみとアパホテル」配信では、冒頭から画面にいない樋口楓がドライヤーで髪を乾かしていました。その頃から私はVTuberを視ることを楽しんでいたのかもしれません。どんなに優れたシナリオライターも思いつかないリアルな言葉を喋る二次元の人がいて、どんなに優れた演出家も見落とす生活の細部を過ごす二次元の人がいる、そのことにずっと魅力を感じているんだと思います。

委員長がリアルを愛しているから

 

2月に入ってから「雲隠れ」していた委員長、その理由は「にじさんじのことを考えない日を作りたくなったから」でした。しかしその声にあまりネガティヴな色は無く……。

かねてよりつけていた「やりたいことリスト」のデータが飛んでしまい、また一から列挙を始めた委員長は、そのラインナップがその気になれば今すぐにでも出来ることばかりだと気づき、新しいことに挑戦しなくなっていた自分に「ちょっとヤバいな」と思った……というのがお休みに至る流れで、ニュアンスとしては宇多田ヒカルの「人間活動に専念」に近い感じでしょうか。

いま書き起こしてて思いましたけど、こんなにはっきりと思考の流れを言ってくれるの凄いですね。「茶番で全てを煙に巻くのも考えたよ!」とも言っていましたが、それをやめただけの意志と意味があるように感じます。

 

この配信で驚いたのは「月ノ美兎じゃなかった時間について月ノ美兎が話していた」ことです。雑談のネタを作るでもなく懐かしい友達と会って、行きたい場所に行って、食べたいものを食べる。意識的に月ノ美兎から離れて過ごしていた時間があったことを月ノ美兎が話す。「ふつうの女の子に戻ります」と言って辞めるのではなくて、ふつうの女の子に戻ったり戻らなかったりする。

このような吐露を受けると、委員長が1stシングルのカップリングにセラニポージ『ありふれた毎日の歌』のカバーを選んだ、という事実が今まで以上に響いてきます。

曲の主人公は、大きなお城の中で目覚めて、庭で野バラを摘んで、ドレスを着て、夜には眠るお姫様。「バーチャルYouTuberを始めてからずっと同じ家にいるんですよ」「場所性に囚われないバーチャルYouTuber、なんと一番場所性に囚われてるという……

お城の門番はなぞなぞを出して「答えを当てたらここを開けましょう」と言いますが、それに対してお姫様が思うのは

私はただのカゴの中の小鳥

外へ出たらきっと泣きたくなるわ

答えは知ってる 言えないだけ

ということ。

きっと委員長もお城を出る答えは知っていて、言うべきなのか、いつ言うのか、言ってどうなるのか、そのような懊悩を抱えているんじゃないかと思います。勝手に思ってるだけですが、「ひょっとしてお城の中で一生暮らすつもりなの?」でも我々だってそうですからね……。

委員長がカバーするにあたって冒頭部分の伴奏が8bitサウンドで新たに書き下ろされています。あのファミコンみたいなピコピコ音ですね。そこから流麗なハープのグリッサンドで生楽器にバトンタッチする編曲はまさにバーチャルからリアルへの転換に重なって、ああ全部わかってやっているんだ、とすら思います。「今回の休止はあくまで『やりたいことリスト』を消化するためで、配信で話すのとは切り離して……つっても今日体験レポ作って来ちゃったんですけどね」!

 

一連の流れを振り返って改めて思うのは、委員長ってバーチャルと同じくらいリアルのことを愛しているんだろう、ということです。

「一緒に精一杯この世を生きましょう」って大袈裟な冗談のつもりだったらしいですが、紛れもなくバーチャル世界から現実を眼差してますね。バーチャルとリアルのどちらかに軸足を置くのではなく、境界を跨ぐ形で立っている。この2週間ってつまりその重心の均衡を取り直す期間だったんじゃないでしょうか。

煙に巻かれること無く話された「月ノ美兎から離れて過ごした時間があった」というリアルは、そのリアルさ故に我々の心の最深部に共鳴し、またその「月ノ美兎じゃなかった時間」に垣間見える現実への愛着は、そのまま我々の暮らしにも投射されます。これは今回に限らず過去の体験レポとか、ご学友とのエピソードとか、ずっとそうですね。

そして、どうやら月ノ美兎さんが愛しているっぽいそんな現実のことを私も好きになってみようと思う、そう思えたならば、それってこの上ないほどバーチャルアイドルだと思います。二次元の人が三次元の話をするまどろっこしい行為の意味は少なからずそこにある。「大きなお子さんたちを沼から救います」って、本当にそう。

アイドルで、ヒーローで、そしてなによりふつうの人間だからこんなに救われてるんだと思います。4年目に入ったこれからも、どうか健やかであってほしいと願うばかりです。「いつか浮かんで宇宙まで」!